自由の制限を制限すること:法規制レジームと自粛レジーム

 最近ドイツのニュースを読んだり見たりしていると、毎日のように、新型コロナウィルス対策としてなされる行動規制とその緩和を争点とする裁判とデモの報道がある。たとえば、最近話題になった事例として、ベルリンのシャルロッテンブルクのディスコが、ダンス禁止の州条例に異議を申し立て、ベルリンの行政裁判所が原告の訴えを認めた裁判がある。報道によれば、裁判所の判決は以下の通りである。

 ダンスの禁止はウィルスの伝播を食い止めるという正当な目的を追求しており、適切で必要なものと認められる。しかし、ワクチン接種者と回復者に関して言えば、その禁止は「バランスを欠いている公算が大きい」と評価できる。依然として国全体の感染状況は継続しており、感染防止法の諸規制は今後も適用されうるであろう。しかし、ワクチン接種者と回復者に関しては、ダンスの禁止はバランスを欠いていると想定できる。そのように裁判所は説明している。

 ディスコの営業活動の自由の制限は、現状のデータに照らして判断するかぎり、ワクチン接種者と回復者の感染が感染事象全体に及ぼす「きわめて限定的な影響」に対して、適切なバランスにあるとは言えない。そう判決文は述べている。この決定に対しては、ベルリン・ブランデンブルク上級行政裁判所に抗告が可能である。

 

Das Tanzverbot verfolge einen legitimen Zweck, nämlich die Virus-Ausbreitung einzudämmen, und sei dafür auch als geeignet und erforderlich anzusehen, so das Gericht. Es sei aber hinsichtlich geimpfter und genesener Personen “voraussichtlich als unverhältnismäßig” zu bewerten. Es bestehe zwar nach wie vor eine epidemische Lage von nationaler Tragweite, so dass die entsprechenden Regelungen des Infektionsschutzgesetzes weiter anzuwenden seien, erklärte das Gericht. Für Geimpfte und Genesene sei ein Tanzverbot jedoch voraussichtlich unverhältnismäßig.

Die Einschränkungen der Berufsausübungsfreiheit von Diskotheken stünden nach den bisher vorliegenden Daten in keinem angemessenen Verhältnis zu den “sehr überschaubaren Auswirkungen”, die Infektionen von Geimpften und Genesenen auf das Infektionsgeschehen hätten, hieß es. Gegen den Beschluss kann Beschwerde beim Oberverwaltungsgericht Berlin-Brandenburg eingelegt werden.

Tanzverbot für Geimpfte und Genesene in geschlossenen Räumen gekippt

この判決をうけて、ベルリン州政府は上級裁判所への抗告を断念し、条例の改正に着手することを発表した。そういうわけで、ひとまずこのディスコ1軒のみに適用された判決は、ベルリンのすべてのディスコやクラブの営業に道を開くことになった。一方、勝訴したディスコはこの判決を受けてどうしたかというと、ワクチン接種者と回復者のみに入場を許可するという対応はとらずに、接種者&回復者と検査陰性者を厳格に区別して扱うややこしいシステムを導入したようである。報道によると、ワクチン接種者と回復者は予約不要で来店でき、指定されたエリアで自由に踊ることができるが、未接種者は事前に予約が必要で、当日は有効な陰性証明を持参するする必要がある。また陰性証明のみの客は自分の席の周囲でのみ踊ることが許され、接種者&回復者と接触することは厳禁されているらしい。顧客には未接種者もいるのだから当然と言えば当然だが、感染対策と営業の確保と差別的待遇の回避のあいだで落とし所を探る店側の対応はとても興味深い。

 他方、まったく逆の立場から市民が裁判所に訴え出るということも起こっている。バーデン・ヴュルテンベルク州では、病歴があって医師からワクチンを接種しないように助言されている女性が、未接種者にのみ抗原検査の陰性証明を求める州の条例に異議を申し立て、裁判を起こしている。この女性は、公共生活のいくつかの場面でワクチン未接種者に対し陰性証明を義務づけるのは行き過ぎであり、かつワクチン接種者や回復者に陰性証明を免除することは未接種者を感染の危険にさらすだけでなく、平等原則をも侵害していると訴えた。これに対して州の行政裁判所は訴えを棄却している。裁判所の判断では、条例は感染防止という目的に照らして正当であり、抗原検査は無料で幅広く提供されている。ワクチン接種者や回復者が感染し他人を感染させる可能性は確かに存在するが、そのリスクは大幅に減少しており、接種者&回復者もマスク着用義務などのルールに今後もしたがう以上、未接種者の感染防止への配慮も十分になされていると言えると結論している。

 ドイツは連邦制の分権国家で新型コロナ対策の具体的な実施は州政府の管轄になるため、日々、全国各地の州都で似たような裁判が開かれている。こうした光景を目の当たりにすると、ドイツにおいて、感染対策としてなされる個人の自由の制限がもっぱら法的規制にもとづいていることがよくわかる。ここではこれをではざっくり「法規制レジーム」と呼んでみたい。

 法的規制によって個人の自由を制限する場合、それを厳密に根拠づけることが求められる。なぜ個人の自由を制限する必要があるのか、そのような制限の正当な根拠はどこにあるのか、個人の活動の自由をどの領域において、どの程度まで、またどれだけの期間、規制するのか。こうしたことを法令化の際に厳密に定めねばならない。それはすなわち、個人の自由を制限すると同時に、その制限そのものをも制限することを意味する。法的規制によって個人の自由を制限する体制(法規制レジーム)は、実はその規制そのものによって、自由の制限に限界を設定する体制でもある。したがって、法規制レジームの国では、たとえばワクチン接種の進展によって法的規制を正当化する根拠が崩れた場合には、市民が法廷に訴え出て、それを覆すことができる。ワクチン接種者がウィルスに感染し、また他人を感染させる可能性は、未接種者に較べてはるかに低いことがわかっている。またたとえブレークスルー感染が起こっても、重症化する確率が、未接種者よりもはるかに低いこともわかっている。だとするなら、ワクチン接種者と未接種者を同列に扱って一律に自由を規制する条例は、バランスを欠いており、十分な根拠を有しないことになる。そういうわけで、ベルリンのダンス禁止条例は、市民の訴えで覆され、条例の改正に向かうことになった。現在、ドイツではこの種の訴訟が頻発しているが、それはドイツが法規制レジームの国であることを表していると言える。

 現在、ドイツではワクチン接種者限定で規制を緩和する方策について議論が沸騰しているが、ドイツの政治家がワクチン接種者を優遇する政策を推進するのは、経済活性化のためというよりも(もちろんそれも眼目のひとつではある)、裁判に負けるからである。ワクチン接種によって、みずから感染し重症化するリスク、そして他人を感染させるリスクが大幅に減少しているにもかかわらず、これまでと同様に個人の自由を制限し続けることは法的根拠を欠いており、その状態を放置すると、裁判で負けつづけて外堀を埋められ、感染制御をデザインする政治の裁量が失われることになる。そうなるくらいなら、率先して緩和の方策を策定したほうが良いという判断が政治家にはある。そういうわけで、現在、ドイツの政治家には(おそらくフランスやスペインの政治家にも)、ワクチン接種者を優遇しないという選択肢は存在しない(たとえ冬の感染拡大が心配でも規制緩和せざるを得ない)。唯一の問題は、どうやって優遇するかで、いわゆるワクチン・パスポートはそのひとつの方法に過ぎない。たとえば、ドイツではワクチンパスポートを採用する動きはなく、代わりに3G(ワクチン接種、回復=抗体保持、検査陰性証明によるスクリーニング)と2G(ワクチン接種者と回復者に限定した規制緩和)という二つの規制を使い分ける方式が定着しつつある。いずれにしても、問題になっているのは、法的根拠を喪失した個人の自由の制限を見直し、感染制御のアプローチを設計し直すことである。

 法的規制によって個人の自由を制限することは、自由の制限を制限することでもある。ということは、一見すると逆に見えるかもしれないが、個人の自由を法的に規制する社会は、それだけ個人の自由を重視する社会だということになる。個人の自由を重視するからこそ、法的規制によって制限の範囲を厳密に限定するのである。

 法的規制による自由の制限が同時にその制限を制限することでもあるという観点が重要だと思うのは、これを見落とすと中国のロックダウンとフランスやスペインのロックダウンを区別できなくなってしまうからである。中国のロックダウンは個人の自由の重視とはまったく結びついておらず、住民の同意などお構いなしに強権的かつ迅速に実施される。たとえば、今年の8月に武漢で8人の感染者が出た際に、中国政府はただちに武漢市をロックダウンして住民1200万人全員を検査するという強行手段に打って出ているが、このようなことはフランスでは到底不可能である。ドイツであれフランスであれ、個人の自由を重視する社会は、個人の自由の制限にきわめて慎重である。政府は十分に説得力のある根拠がないと強い規制を導入できないし、国民も議会も簡単には同意しない。しかも日本のような自粛メカニズムがないので、感染者が増え出すと制御するのが難しい。そういうわけで、ドイツやフランスやスペインでは、ロックダウンは状況がすでに相当に悪化した段階で、強力かつ限定的な法的措置として、ようやく実行される(そのさいロックダウンの理由・目的・範囲は厳密に規定される)。したがって、それらの国では、感染者も死者も増え、ロックダウンも長引くことになって、外部の観察者の眼には非常にプリミティブで非効率的なことをやっていると映ることになる。しかし、この遅延、このプリミティブさ、この非効率こそは、法規制レジームのロックダウンの特徴なのである。中国のロックダウンのような迅速さと効率性は、個人の自由など屁とも思わない体制でのみ可能である(最初の武漢のロックダウンもいまから振り返ると非常に迅速かつ効率的だった)。一見すると、中国のロックダウンに似ているように見えるかもしれないが、法規制レジームの国のロックダウンは、その実質において正反対であると言えるだろう。

 「日本は私権の制限に慎重な社会だからロックダウンは無理だ」という意見を時々見かけるけれども、私権の制限に消極的であることは、個人の自由の尊重を意味しない。それは法的規制による自由の制限に消極的であるということであり、法的規制ではなく自粛メカニズムで対処するということである。個人の自由を制限することに慎重な国はロックダウンを法的措置として必要とする。それは自由の制限の制限である。自粛も自由の制限であるが、その制限には限定がない。自粛はたんなる自由の制限であって、自由の制限の制限ではない。したがって、自粛はしばしば暴走し(「マスク警察」)、しばしば有名無実化する(「ステイホーム」、「緊急事態宣言」)。そしてほぼつねに、暴走と有名無実化が隣り合って共存している。このような自粛メカニズムによる感染制御を、これまたざっくりと「自粛レジーム」と呼んでみる。今年の春までは日本の自粛レジームは非常に効果的だった。感染者数も死者も法規制レジームのフランスやドイツよりはるかに少なかった。それが変化したのが8月の感染拡大で、日本でも新規感染者1日2万人、インシデンス(人口10万人当り7日間の感染者数)100以上という状況が生じた。したがって、いまや感染者数・死者数だけを見ても、自粛レジームのほうが法規制レジームよりもマシであるとはすんなり言えない状況になっている。

 自粛レジームの厄介なところは、それに対して抗議し、抵抗することが極度に困難な点にある。いまフランスを筆頭に多くのEU諸国では、ワクチン・パスポートの導入に反対するデモが盛んに行われている。すでに述べたように、ワクチン接種者の規制緩和をめぐる法廷闘争も盛んである。個人の自由の不当な制限に対する抗議行動は、政府に対する法廷闘争とデモという2つのルートで展開している。そうしたEU諸国の状況とは対照的に、日本では新型コロナウィルス対策による個人の自由の制限に抗議する法廷闘争もデモもほとんど起こっていない。しかもそれは今に始まったことではなく、このパンデミックが始まって以来ずっとそうである。理由は明快で、自粛レジームにおいては、自由を制限しているのは住民であるわたしたちひとりひとりであって、政府でも国家でもないからである。法的に拘束力のあるかたちで自由が制限されているわけではないので裁判に訴えることはできないし、自分自身に抗議するためにデモをする人はだれもいない。私たちの生の息苦しさ、不自由さは、自粛レジームに由来する。私たちは旅行することを禁止されていないし、やろうと思えば深夜に居酒屋で酒を飲むことも可能だ。そうしたことをしたからといって、罰金が科されるわけではない。にもかかわらず私たちがそれをしないとすれば、それは必ずしも責任感ゆえではない。自粛を破って感染したときに降りかかるかもしれない災厄、匿名の他人たちからのバッシングを恐れるからだろう。いま私たちを苦しめている閉塞感の大きさは自殺者の増加として数字にも表れているし、自粛レジームが個人の命をどれほど軽視しているかは、自宅療養という名の医療放棄のために死亡した人々の存在が証明している。

 『表象』15号に掲載された明晰で刺激的なエッセイのなかで、ポール・B・プレシアドは、新型コロナウィルスに対する各国政府のアプローチには二種類あると述べている。ひとつはロックダウンを主要手段とする「全人口の自宅隔離」で、中国に始まり、フランス、イタリア、スペイン、英国、米国で採用されたという。プレシアドは中国とフランスのロックダウンをひと括りにするミスを犯しているが、これはフーコーが『監獄の誕生』ほかで提示した古典的な生政治であり、ここでは便宜的に「法規制レジーム」と呼んだものに相当する。もうひとつは「分子生物学的テクノロジーとデジタル監視による身体および現代的主体性の制御」であり、これはシンガポール、韓国、台湾、香港、日本で実施されているという。こちらは「生体情報監視レジーム」とでも呼べそうだが、面白いのは、同じ号の特集の緒言で木下千花さんがプレシアドの論点を簡潔にまとめたさいに、後者のアプローチを採用した国について「日本を除く東アジア諸国」とキッチリ訂正を入れていることで、確かに日本はロックダウンもしなければ、デジタルテクノロジーの積極活用もしない国として、今日にいたっている。つまり、日本の感染制御は法規制レジーム(古典的な生政治)にも、生体情報監視レジーム(クスリポルノ的生政治)にも分類できない。日本の自粛レジームは、それらのいずれとも合致しないのである。ということは、私たちは、プレシアドのスケッチする対抗戦略を無邪気に採用できないことになる。ヨーロッパの国々で通用する抵抗の戦略が、私たちを苦しめている自粛レジームを突破することにそのまま役立つと考えることはできない。

 日本でもようやくワクチン接種率が5割を超えて、ドイツやフランスと同様にワクチン接種者に対する優遇策が議論されるようになっている。ここで興味深いのは、政府の分科会が「ワクチン・パスポート」という概念にはっきりと反対を表明していることである。分科会が公表したスライドでは「”ワクチンパスポート”という言葉が海外渡航に関して使用されているが、国内でこの言葉を用いると、”パスポート”という言葉がそれを保持しない人が社会活動に参加できないことを想起させ、社会の分断に繋がる懸念がある。したがって、国内では”ワクチンパスポート”という言葉は使用すべきではないと考える」と述べられている。分科会は代わりに「ワクチン・検査パッケージ」という言葉を提案しているが、おそらく自粛レジームの社会では、ワクチン接種者への優遇策をめぐる議論も、法規制レジームの社会とは異なる道筋をたどることになるのだろう。

プレシアドは次のように語る。

あなたのコミュニティがどのように政治的主権を構築しているのか言ってみたまえ。そうすれば、疫病がどのような形をとるのか、そしてあなたがそれにどのように立ち向かうのかを言い当てよう。

ポール・B・プレシアド「ウィルスに学ぶ − 自宅という柔らかい監獄からの脱出」、『表象』15号、p.87。

私たちの社会はどのように政治的主権を構築しているのだろうか。自粛レジームと向き合うことなしに、この問いに答えることはできないように思える。私たちの身体にまといつき、呼吸を苦しくし、生から快活さを奪っているのは、自粛レジームなのだから。

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