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文楽座東京公演の照明と国立劇場の現在

 2024年9月に新国立劇場で開催された文楽鑑賞教室はなかなか興味深いものだった。忘れないうちにメモしておきたい。今回、わざわざ東京の公演を見に行ったのは、二つの理由からだった。ひとつは、会場が現代演劇で使われるブラックボックスの劇場(The Pit)だったこと。もうひとつは、新作ではなく古典の演目で従来とは異なる照明の使用が試みられているらしいという噂が耳に入ってきたことだった。

 近年、文楽座の演者たちは、異分野とのコラボレーションや最新技術(たとえばプロジェクションマッピング)を導入した公演にかなり積極的に取り組んでおり、本来、人形浄瑠璃の上演を想定していない会場での公演も増えている。とはいえ、それは基本的に大阪での話であって、しかも国立文楽劇場の主催ではない公演に限られている。ところが、今回、国立劇場の改築という問題があったにせよ、東京国立劇場の主催公演で「古典」としての人形浄瑠璃の規範から逸脱した上演が試みられたのである。今年の夏に出版した本でも簡潔に論じた「古典」の現在地を考えるうえで、無視できない出来事である。

 私が見たのはBプログラム。呂勢太夫&燕三&簑紫郎という出演陣で選択した。The Pit は現代演劇の劇場なので、間口が狭くて奥行きが深い。こういう会場で人形浄瑠璃を見るとどんな感じなのか体験したかったので、今回はあえてかなり後方の席を選んでみた。まず舞台について言うと、すでにSNSでも盛んに語られている通り、最初の演目「伊達娘恋緋鹿子・火の見櫓の段」のセットが映える。間口が狭くて天井が高いので、火の見櫓の高さが強調されて美しい(ただお七が櫓を登るところの人形はいまひとつ)。また後方の座席から見ていると、客席の位置が高いので、人形の足がつねに手摺から浮き上がって見える。本手摺の後に人形があるときには、人形遣いの履いている舞台下駄まで見えてしまう。足遣いの仕事が見えるという意味では興味深いが、やはり人形浄瑠璃の上演としては問題がある(二階席ならば話は別だが)。次に床だが、こちらも後方の座席に座って聴いていると、聴こえ方が国立文楽劇場などとは相当に異なる。簡単に言うと、直接音と反射音の割合が違っていて、圧倒的に反射音の比率が高くなるのである。「伊達娘恋緋鹿子」のときには、太夫三味線がかなり客席の側に身体を向けて座っていたので、太夫の語りも三味線もよく聞こえたけれど、「夏祭浪花鑑・釣船三婦内の段」の呂勢太夫と燕三は舞台から斜めに突き出た床に正対するような角度で(ということは後方の客席から見るとやや横を向いて)座っていたようで、どうも響きの輪郭がはっきりしない。本来、呂勢太夫の語りはとても聴きやすいので、これにはかなり動揺した。ちなみに「長町裏の段」の簑紫郎さんの団七は大きく遣って力強く、かっこよかった。

 さて問題の照明である。今回の公演の照明は、国立劇場や国立文楽劇場の公演とはまったく異なるものだった。簡単に確認すると、まず「伊達娘恋緋鹿子・火の見櫓の段」では、客電の明るさが相当暗く設定されていた。手元の床本の文字が読めないくらいだから、通常の公演と比べるとかなり暗い。文楽紹介のコーナーを挟んだ「夏祭浪花鑑・釣船三婦内の段」では、一転して場内は明るくなる。ほぼ通常の文楽公演並みの明るさである。続く「長町裏の段」で、照明はまた変化する。まず冒頭で客電が完全に落され、両サイドの前方にある提灯だけが暗く灯される。このとき舞台には暗色の幕が下ろされおり、その背後で舞台替えの作業が進行する。さて作業が終り幕が落される瞬間、客席は完全に暗転する。客電だけでなく提灯もすべて消灯。現代演劇の舞台のように演者のいる空間だけが明るく照らし出されることになる。そして終盤、神輿が出てくるところでは、両サイドの提灯だけが点灯して、だんじり囃子の演奏とともに祭りの夜の雰囲気が演出される。さらに団七が義兵治を追いつめ殺すところではスポットライトが用いられる。最後、団七が下手に向かって出て行くところでも、強いスポットライトが人形に当たり、団七の歩みに従ってスポットライトが移動してゆく。公演の始めの頃は、この部分で人形の位置とスポットライトの角度がズレて、カシラに妙な影が出てしまったりしたようだが、私が見た日にはそうした問題は生じていなかった。

 人形浄瑠璃の公演で客席の客電を落し、舞台だけを明るく照らし出すことは、人形浄瑠璃を現代化する試みのなかで、しばしばなされてきた。たとえば、杉本博司が構成した「杉本文楽 曾根崎心中」では、客電が落されるのはもちろん、太夫が語る床にも最小限の照明しか用いられず、客席から見ると太夫の姿は暗闇に沈む込むかのようだったし、三谷幸喜が演出した「其礼成心中」でも、客電は落されていて、ごく一般的な演劇公演にみられる劇場空間が作られていた。こうすることで舞台は暗闇のなかで鮮やかに際立つことになり、観客が虚構世界に没入しやすくなる。なにより、古典芸能の舞台に慣れていない観客にとっては、こちらの方式のほうが親しみやすい。同様の理由から、これらの舞台では基本的に人形の出遣いも回避され、人形遣いは黒衣を纏うことになる。照明の工夫と組み合わせられることで、人形の姿だけが観客に印象づけられるように演出されるのである。同様の試みは、1980年代後半にラフォーレ原宿で開催された「原宿文楽」での「曾根崎心中」の上演でもすでになされていた。

 そのさい面白いのは、往々にして、こうした現代化の試みが、同時に人形浄瑠璃の歴史を遡行する側面も備えていることで、たとえば、杉本文楽の場合には、現行の文楽公演では改変されている近松の原文が忠実に復元されているだけでなく、「観音廻り」では、近松の時代にそうだったように、一人遣いの人形が採用されている。人形の出遣いが一般化したのは近代のことであり、かつては黒衣が原則であったのも周知の通りだ。三谷文楽では、太夫と三味線を舞台正面後方の高い位置に配置して、その前で人形が芝居をしていたが、太夫座の配置も歴史的に変転しており、実際に舞台正面後方の高い位置に太夫が座を占めて語ったこともあった。要するに、現行の人形浄瑠璃の上演形式(床と手摺舞台が空間的に隣接し、三人遣いの人形で芝居をする)が定着する以前の上演方式へと回帰している側面もあるということなのだ。まさにそれゆえに、こうした現代化の試みでは繰り返し近松が参照されるのではないかという仮説は以前に書いたことがある

 とはいえ、こうした現代化の試みに見られる照明の方法は、これまで国立劇場および国立文楽劇場が主催する公演では採用されてこなかった。これらの劇場では上演中も客電はつけられたままであり、一定の均質的な明るさが客席を満たし、舞台のほうでは、スポットライトの使用や技巧的な照明を用いた演出は控えられるのが常だった。そこで意図されているのは、「古典」の上演にふさわしい照明、すなわち、「新作よりも古典の尊重が、重要文化財としての文楽を守るために第一の精神でなければならない」という思想にもとづき、「照明も微妙な変化を表すことが可能になったとはいえ、新劇におけるような技巧はむしろ避けて、浄瑠璃と人形との表現力にまつべきだ」(北岸佑吉「文楽の将来」、『日本の古典芸能7 浄瑠璃』所収)という判断に導かれた照明法だと思われる。つまり、「古典」の芸をできるだけ忠実に今日の観客に示すことを意図した照明である。これを照明の「古典様式」と呼んでみたい。

 はっきりしているのは、この「古典様式」が近代の産物だということである。それは古典作品の初演当時の舞台を再現することを目指した照明法ではないし、人形浄瑠璃にとって「本来的」だっったり「伝統的」だったりするような照明法でもない。昭和五年一月に開場した四ツ橋文楽座で初めて技術的に可能になった照明法である。それ以前には、現在私たちが慣れ親しんでいるような均等な明るさで満たされた客席空間も、控えめだが効果的な照明によって均質に照らし出される舞台空間も、存在し得なかった。たとえば、御霊文楽座では、昼間は明かり窓から光を入れ、夜は舞台上方に吊るされた洋燈(オイルランプ)と床の蝋燭が主要な光源だった。三宅周太郎の『文楽之研究』の初版本には、巻頭に大正七年に改修された御霊文楽座の客席空間を写した写真が掲載されているが、それを見ると舞台後方、二階席の左右の天井に明かり窓があり、そこから差し込む光が不均等な明るさを場内に配分しているのがよくわかる。またオイルランプの場合、炎がチラチラと揺れるだけでなく、時間が経つにつれて火屋が煤けてどうしても暗くなってくる(なので火屋を掃除する洋燈係がいた)。なので電気照明のような均質的で安定した舞台の明るさを確保することはできなかった。そういうわけで、御霊文楽座(およびそれ以前の芝居小屋)の客席空間は均等ではない明るさ(暗さ)に支配されており、舞台も現在の私たちの感覚からすれば薄暗かったと思われる。それゆえ四ツ橋文楽座の電気照明は、御霊文楽座で人形浄瑠璃を観劇してきた旧来の観客たちに、時折、違和感を感じさせたのだった(拙著第二章を参照)。

 私にとって今回の東京での文楽座公演で興味深かったのは、東京国立劇場の制作になる舞台が、古典作品の上演で「古典様式」から逸脱した照明を採用したことである。じつは東京国立劇場は、すでに今年三月に有楽町よみうりホールで開催した入門公演 BUNRAKU 1st SESSION でも「古典様式」から逸脱した照明を採用していた。ただこちらは例によって近松の「曾根崎心中」が題材であり、アニメーションとのコラボでもあって、杉本や三谷の試みに近い企画だった(そのようなものに国立劇場が手を出したことは注目に値する)。アニメーションをプロジェクターで投影する都合上、客電の消灯は必須であり、通常の舞台照明では問題が生じたと思われる。それに対して、今回は近松物ではない古典作品の上演で、おそらく「古典様式」に近づけることも不可能ではなかったと思われる会場で、あえて実験的な照明を試みていた。もちろん、人形浄瑠璃に馴染のない観客への配慮とみなすことも可能だけれども、これまでは初心者向けの公演でも「古典様式」を採用してきたのだから、そこにスタンスの変化を見ることは可能だろう。

 これに関連してもうひとつ、東京国立劇場が発表した12月公演の演目も注目に値する。そこでは第一部に、二つの新作物が入っているのである。ひとつは「瓜子姫とあまんじゃく」で、もうひとつは「金壺親父恋達引」である。前者は言わずと知れた木下順二の新作物で大阪(朝日座・国立文楽劇場)ではすでに10回上演されている一方で、東京の国立劇場ではこれまで一度も上演されたことがない(2020年に上演計画があったがコロナで中止)。後者の井上ひさしの新作は2016年に国立文楽劇場で1回上演されただけで、東京の国立劇場では一度も上演されていない。周知の通り、これまで東京国立劇場は、新作物をあまり上演してこなかった。東京の観客は本格志向であり、「古典」を求めて劇場に来るのだから、新作は無用だと言われていた。ところが、12月の東京公演では一度に二つの新作物が上演されるのである。これは東京の国立劇場の制作のスタンスが変化したというよりも、人形浄瑠璃を取り巻く環境(国などのステークホルダーの意向も含む)の変化を反映しているのだろう。「古典」としての人形浄瑠璃のあり方に大きな変化が生じているのではないだろうか。こうした文脈のなかに置いて考えると、今回の東京公演の照明は、単なる会場の都合や初心者向けの配慮の結果にすぎないとは思えないのである。

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