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近松という参照点:『人間浄瑠璃』雑感

苦節30年、いよいよ本当に開館した大阪中之島美術館で、森村泰昌&桐竹勘十郎による『人間浄瑠璃 新・鏡影奇譚』を見てきた。私は近代の人形浄瑠璃の観客史に関心があり、大正から昭和までの資料を調べ、論文も書いているが、研究関心の消失点をなしているのは、リアルタイムで進行中の人形浄瑠璃の上演形態と観劇体験のラディカルな流動化である。2012年に橋下大阪市長が文楽に対する補助金のカットを打ち出して以降、人形浄瑠璃の演者たちの活動が活発化したことは疑いない。おそらく後から振り返ってみれば、橋下大阪市長の発言から始まった平成の文楽の危機は、労働争議を発端として文楽座が因会(松竹派)と三和会(組合派)に分裂した昭和20年代半ばから30年代初頭の危機に匹敵する転機として評価されることになるだろう。戦後の人形浄瑠璃の発展において三和会の奮闘がどれほど重要であったかは、内山美樹子氏が『文楽・歌舞伎』(岩波セミナーブックス60)で力説する通りだ。橋下市長による恐喝が、結果的に技芸員たちにとって、国や自治体に生かされていることを当たり前とせずに、みずからの力を自覚して奮起する契機になったことは否定できない(だからといって維新の破壊的な文化政策を評価できないのはもちろんである)。それまでは能、狂言、歌舞伎と較べて、文楽の技芸員が他ジャンルの表現者とコラボすることは少なかったが、これ以降、技芸員たちが活発に異分野との交流に乗り出すことになる。そこにはゴスペルもあれば、ハイファッションボーカロイドもある。東京と大阪の国立劇場での定期公演と地方巡業という上演活動のパターンにも変化が生じた。大阪市中央公会堂で手頃な価格でトークも交えて舞台を見せる「中之島文楽」(2015年〜)、在阪民放局がスポンサーになり中堅・若手中心の企画をグランフロント大阪のナレッジシアターで上演する「うめだ文楽」(2015年〜)、日本財団が企画し六本木ヒルズや難波宮跡公園の野外ステージで飲み食いしながら舞台を楽しむという趣旨の「にっぽん文楽」(2015年〜)がスタートした。外部からの演出者の参入も相次いだ。美術家杉本博司の「杉本文楽 曾根崎心中」(2014年初演)、演出家三谷幸喜による「三谷文楽 其礼成心中」(2012年初演)は非常に話題になり、再演もされた。今回の「人間浄瑠璃 新・鏡影奇譚」もこうした流れの中にある。これらの動きの根底にあるのは、とりわけ1970年代に東京の国立劇場で確立した古典名作の通し上演を基本とする、ストイックかつ本格志向な「古典芸能」としての人形浄瑠璃の上演&鑑賞の枠組みの流動化(解体)である。私の研究はこの現在を消失点として、観客という観点から人形浄瑠璃の近代を考えることを主眼としている。

 今回、森村氏の「人間浄瑠璃」を見ての第一印象は、「落着くべきところに落着いたな」というものだった。私には三業の芸を批評する能力はないので、森村氏の「人間浄瑠璃」のコンセプトに話を限定するが、この上演に先だって行われた公開の対談(平田オリザ氏、石黒浩氏を交えたものと、勘十郎氏とのもの)では、森村氏のアイデアがまだ全然固まっておらず、「大丈夫なのかな」という感じだったが、最終的に見いだされた解決は、現行の三人遣いの方式を継承しつつ作り直すというものだった。対談でも盛んに話題になっていた「人形になる」ということは、この作品の場合、人形の振りをするということではなく、みずからの身体のモビリティを文字通り放棄するということだった。人形の振りをする場合には、演者の身体のモビリティは無傷のままに保たれる(歌舞伎の人形振りのように)。あくまでも演者が人形を演じるのである。それとは対照的に、今回の作品では、演者は身体のモビリティの大半を完全に放棄する。人形の腕は森村氏自身の腕ではなく、特別に作られた人形の手であり、主遣い(勘十郎氏)と左遣いが操作する。人形の足もまた森村氏自身の足ではない。森村氏の身体は台車のようなものに載せられており、その台車を足遣いが操作することで舞台上を移動する(森村氏の足はモビリティを担っていない)。森村氏の身体の動きは、したがって、ほぼ首だけに限定されている。顔には仮面のように分厚いメイクが施されており、森村氏が表情を作ることもほとんどできなくなっている。そのかわりに文楽人形のガブの仕掛けが利用されており、表情の変化は完全に外部の機構に移されている。したがって、この作品において、森村氏は人形の振りをすること(人形を演じること)を放棄することで人形になったと言える。それは人間主体に備わる能力をほぼ完全に放棄することであり、他者に操られるがままの存在になることである。私がこの作品を見て「落ち着くべきところに落ち着いた」と感じたのは、森村氏が試行錯誤の果てに、人形浄瑠璃の人形の本質に立ち返り、そこから三人遣いを作り直したと感じたからである。人形浄瑠璃の人形は本質的に「操られる」存在であり、人形浄瑠璃が描き出すのは、主体的に行動する自由な存在としての人間ではなく、大きな力にどうしようもなく操られる存在としての人間である。

 今回の浄瑠璃の床本では、E・T・A・ホフマンの短編小説やオッフェンバックの『ホフマン物語』(二世桐竹勘十郎の追善興行の元ネタ)を参考にしたと森村氏は述べているが、実際に舞台を見てみると、演出上のアイデアの最大の源泉は日本舞踊(歌舞伎舞踊)の演目「京人形」であるように思える。主人公の設定や鏡のモチーフ、同じ身振りの反復の演出は明らかに「京人形」を参照している。この演目についてパンフレットでまったく言及されていないのは不思議な感じがした。「京人形」における人形振りと比較することで、森村氏のアプローチの特徴はより明瞭になるはずだ。

 今回の上演で予想外だったことがひとつある。それは冒頭に『曾根崎心中』の「観音巡り」が置かれていたことだ。たしかにこれまでも外部の人間が人形浄瑠璃の現代的上演を試みる場合には、きまって近松が参照されてきたのだから、驚くべきことではないのかもしれない。たとえば、杉本文楽は『曾根崎心中』の原典テキストを改変せずに用いることに重きを置いていたし、三谷文楽もまたその作品タイトルが示す通り、また物語の登場人物として近松が登場することからもわかる通り、近松の世話物を参照していた。しかし森村氏の「人間浄瑠璃」の場合、それまでの対談などでは近松についてほとんど話題になっておらず、どこにも『曾根崎心中』が出てくる気配は感じられなかったのである。にもかかわらず、最後の最後で近松が参照されることになった。森村氏はストーリー上の工夫であるかのように語っているが、それだけが理由だとは到底思えない。「観音巡り」を使わなくても、話の筋は作れただろうと思う。もし作品が形をとり完成に向かう段階で、近松が参照されたのだとするなら、そこには何かより深い必然性があったのではないか。そのように自問したときに、それまでは単に知名度ゆえに近松が持ち出されただけだと思っていた杉本文楽や三谷文楽のケースも含めて、人形浄瑠璃の現代化の試みが繰り返し近松を参照する理由が見えてきた。

 杉本文楽にせよ、三谷文楽にせよ、森村氏の人間浄瑠璃にせよ、問題になっているのは、現行の人形浄瑠璃の様式を改変して、現代にふさわしい新しい上演の様式を見いだすことである。この試みは不可避的に享保19年(1734年)に始まったとされる現行の三人遣いの方式とそれに最適化された上演形式を相対化することを含んでいる。そのとき、おそらく三人遣い以前の時代の人形浄瑠璃の様式を残すものとして、近松が参照されることになるのではないか。「近松」は現行の人形浄瑠璃の様式とは異なる別の可能性が存在することを示唆する記号として機能していると言えるかもしれない。中世の語り物である古浄瑠璃から語りとドラマが拮抗する近世の人形浄瑠璃への決定的な転換を果たした近松の作品が、近世に確立した人形浄瑠璃の様式を捉え直す試みの重要な参照点となる。杉本氏や三谷氏や森村氏が必ずしもそれを意識して近松を選択したとは思わないけれども、実際にはそのような文脈が存在するのではないか。いずれにしても私には、森村氏が近松まで遡ることで三人遣いを再発明する可能性を手に入れたように感じられた。

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