「無知な観客」の誕生
四ツ橋文楽座開場後の人形浄瑠璃とその観客

PDF版(機関リポジトリー)

 7年ほど前から取り組んでいる「近代における人形浄瑠璃の観客史」の研究成果を公開します。本論文の主題は、昭和五年一月の四ツ橋文楽座の開場前後に生じた人形浄瑠璃を取り巻く環境の変化を観客という観点から考察することです。本論文では、四ツ橋文楽座の開場とともに出現した新しい観客たちを「二重の無知」によって特徴づけられる観客として定義したうえで、彼がどのように人形浄瑠璃の舞台に向き合ったのかを三つの観点から検討しています。この検討を通して、本論は、四ツ橋文楽座に登場した「無知な観客たち」のあいだで、古典芸能として人形浄瑠璃に向き合う鑑賞態度が形成されたことを指摘しています。

 なお本論文は人形浄瑠璃の近代を観客史の観点から検討する一連の仕事の一部です。昭和二年から四年までの辨天座時代を扱った論文「弁天座の谷崎潤一郎  昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論」の続編になります。いわばサブの研究ラインなので進捗のペースは遅いですが、最終的にこの仕事は四本の論文から構成される予定です。いわゆる「古典芸能」の観客(オーディエンス)に関する歴史研究は、これまであまりなされてこなかった分野だと思います。ご感想などお聞かせくださると大変嬉しいです。

[2022/05/02 追記]
論文中の下記2箇所に誤植が見つかりました。訂正してお詫びいたします。
注6、注9:(誤)倉田善弘→(正)倉田喜弘
注18:(誤)権田保之介→(正)権田保之助


「無知な観客」の誕生
四ツ橋文楽座開場後の人形浄瑠璃とその観客

海老根 剛

1 四ツ橋文楽座の新しい観客たち 

 大正十五年十一月の御霊文楽座の焼失から昭和二〇年の敗戦までの一時期が、人形浄瑠璃の近代史において大きな転換期であったことはよく知られている。この時期には、立地、劇場設備、上演時間、上演方式、観客層の大きな変化が集中して起こっただけでなく、近代社会における人形浄瑠璃の位置づけと存続の可能性をめぐる議論が活発に交わされた(1)。とりわけ昭和五年一月の四ツ橋文楽座の開場は、人形浄瑠璃の上演と鑑賞の点で重要な画期をなしている。鉄筋コンクリート構造の近代建築として竣功した四ツ橋文楽座は、人形浄瑠璃の劇場としては初めて観客席の大部分に椅子席を採用し、近代的な舞台・照明設備を備えていた。開演時間は午後三時前後となり、上演時間が短縮され、見取り方式に移行するとともに、人形浄瑠璃の入門的な解説と演目紹介、床本を掲載したプログラム冊子が販売されるようになる。さらに新たな観客層の開拓のため、学生や各種団体向けの鑑賞教室が開催されるようになるのもこのときからである。したがって、四ツ橋文楽座の開場は、今日にまで続く人形浄瑠璃の公演形態の起点をなしていると言えるだろう。 

 本論文では、四ツ橋文楽座開場前後に生じた人形浄瑠璃を取り巻く環境の変容を、観客という観点から考察する。観客に注目する理由は、四ツ橋文楽座の開場と同時に、従来とはまったく異なる、新しいタイプの観客が大量に文楽の劇場に現れたからである。昭和五年の四ツ橋文楽座は開場以来前代未聞の大入りが続き、年間三〇〇日以上の公演を行ったが、その会場を埋めたのは、それら新しい観客たちだった。これらの観客については、同時代の証言と回想が多数残されている。たとえば、『浄瑠璃雑誌』二九〇号(昭和五年四月)では「聴客は満員無論組見もあれど、所謂すき者よりも大衆的となり就中棒給生活者が其の大部分を占め」と語られており、同雑誌の同年十一月号でも「それに最近の文樂座は客筋がすつかり一變した事で御霊時代には隠居さんや婦人が主であつたが(中略)新築以来時間は早くなり客種も現代式の紳士淑女に變り餘り白髪頭を見ない」と述べられている(2)。当時高校生だった武智鉄二は、すでに弁天座時代に学生たちの間で人形浄瑠璃に対する潜在的関心が高まっていたと述べたうえで、「四ツ橋文楽座の新築開場が、この潜在的関心に、一挙に火をつけた」と回想している(3)

 従来の研究では、昭和初年の四ツ橋文楽座が扱われる場合、主要な関心は、代表的な演者たちの動向と変化する時代への対応策としての上演方式の変更、とりわけ通し狂言を基本とする方式から見取り方式への移行に向けられてきた(4)。その一方で、新しい観客層の登場については、少数の例外を除いて(5)、周縁的かつ挿話的な記述に留まることが多かった。同様に、近代の人形浄瑠璃史において異例とも言える興行的成功も、ほとんどの場合、劇場の新しさと人形芝居の物珍しさに起因する一時的かつ表面的な現象とみなされ、人形浄瑠璃凋落の趨勢における取るに足りないエピソードとして扱われてきたようである(6)

 本論文では、これまでほとんど学術的な議論の対象とされてこなかった四ツ橋文楽座の新しい観客たちに注目し、彼らを二重の無知によって特徴づけられる観客として定義したうえで、この観客たちがどのように人形浄瑠璃の舞台に向き合ったのかを検討する。もちろん、当時四ツ橋文楽座の客席を埋めた新しい観客たちは無名の人びと(大衆)であり、たとえその社会的地位をある程度推定できるとしても、彼ら一人一人が実際にどのように人形浄瑠璃の舞台を体験したのかを知ることは極めて困難である(7)。したがって、本論文では、以下の三つの観点から当時の新しい観客たちに間接的に接近することを試みる。

 第一に、興行主体である松竹が新しい観客たちをどのように認識し、彼らの観劇体験をどのように文脈化しようと試みたのかを、四ツ橋文楽座のプログラム冊子の表紙デザインと挨拶文の分析を通して明らかにする。次に新しい観客たちの観劇体験を条件づける四ツ橋文楽座の劇場空間の特徴を分析し、それが従来の人形浄瑠璃の観劇体験にいかなる影響を与えるものだったのかを明らかにする。そして、最後に、新しい観客たちの鑑劇態度についての同時代の観察を参照することで、彼らに特徴的な鑑劇の様態に接近することを試みる。これら一連の考察を通して本論は、四ツ橋文楽座開場後に出現した無知な観客たちのあいだで、今日の私たちにも通じる特徴的な人形浄瑠璃との向き合い方が形成されたという仮説を提出してみたい。


(1)森西真弓「四つ橋文楽座開場前後」、『藝能懇話』第十一号、一四二頁−一五五頁。

(2)怠佛「名狂言の萃を蒐めたる文樂座の四月興行」、『浄瑠璃雑誌』二九〇号、昭和五年四月、一頁。吉川閑少「文樂座の忠臣蔵を聞く」、『浄瑠璃雑誌』二九七号、昭和五年十一月、一−一頁。

(3)武智鉄二「文楽 その芸 その人びと」、『武智鉄二全集 定本・武智歌舞伎3 文楽・舞踊』所収、三一書房、昭和五四年、三四七頁。

(4)高木浩志「激動の昭和文楽」、『今日の文楽』(岩波講座 歌舞伎・文楽第十巻)所収、岩波書店、一九九七年、九二−九五頁参照。山口廣一「文楽軒以後の文楽」、『国立劇場芸能鑑賞講座 文楽』所収、昭和五〇年、四〇−四二頁参照。内山美樹子「文楽」、内山美樹子・志野葉太郎『文楽・歌舞伎』所収、岩波書店、一九九六年、四四−五三頁参照。内山美樹子「(付)人形浄瑠璃文楽の上演形態」、『浄瑠璃の十八世紀』、勉誠出版、平成元年、六二二頁参照。

(5)『吉永孝雄の私説昭和の文楽』(青木繁・山田和人構成、和泉書院、一九九五年)には、吉永氏の回想に加えて、「学生鑑賞の始まり」および「文楽の新しい観客」についての記述がある。また次の論文も注目に値する。多田英俊「思想教育の芸術鑑賞に及ぼす影響について −戦前の女学校向け人形浄瑠璃公演を中心に−」、『演劇学論叢』第十五号、大阪大学文学研究科演劇学研究室、二〇〇六年、四〇−五八頁。

(6)守随憲治「浄瑠璃」、『守随憲治著作集第四巻』所収、笠間書院、昭和五四年、三八六頁参照。内山美樹子「文楽」、前掲書、四八–四九頁参照。倉田善弘『文楽の歴史』、岩波書店、二〇一三年、一九八頁参照。

(7)四ツ橋文楽座の開場後、『道頓堀』と『浄瑠璃雑誌』に女学生による人形浄瑠璃初体験の感想文が掲載された。それらの感想文は当時の女学生がどのように人形浄瑠璃の舞台に接したのかを知る手がかりにはなるものの、何らかの基準にもとづいて編集部によって選別された少数の文章であり、当時の新しい観客の鑑賞体験へと一般化することを許さない。「文楽座の印象」、『道頓堀』(昭和五年四月号)、五八−六一頁。「文楽を見た女學生の感想(一)」、『浄瑠璃雑誌』二九〇号(昭和五年四月)、十七−二二頁。「文楽を見た女學生の感想(二)」、『浄瑠璃雑誌』二九一号(昭和五年五月)、十四−十七頁。こうした感想文の扱いに関しては、前掲の多田論文における議論も参照のこと。

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