弁天座の谷崎潤一郎 
昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論

PDF版(機関リポジトリ)

 本論文は大阪市立大学都市文化研究センターによる研究プロジェクト「伝統芸能の近代化とメディア環境」の成果物です。
 私は5年ほど前から、現在のメディア環境の中にある人形浄瑠璃のあり方に関心を持ち、少しずつですが研究を進めてきました。私の人形浄瑠璃への関心は、大きく言うと二つの問いに分けられます。ひとつは、今日のメディア環境に慣れ親しんだ観客に対して、現在の文楽専門劇場で上演される人形浄瑠璃は、いかなる視聴覚的経験を提供しているのかという問いであり、人形浄瑠璃という語り物の劇の視聴覚的構造をめぐるメディア美学的考察です。そして、もうひとつの問いは、そうした近代以降の視聴覚的メディア環境に慣れ親しんだ(そして義太夫の音曲的側面には疎遠な)観客の出現をめぐる歴史的考察であり、とりわけ近代の大都市とメディアの経験によって形作られる感受性(モダニティの感受性)を内面化した「新しい(無知な)観客」と人形浄瑠璃の出会いを跡づけることを試みています。
 今回の論文は後者の問題関心に根ざした試論で、御霊文楽座焼失と四ツ橋文楽座の開場のあいだ、道頓堀の弁天座で文楽座が興行した昭和初年の数年間を、人形浄瑠璃の近代における重要な移行期とみなし、その当時姿を現しつつあった「新しい観客」と人形浄瑠璃との出会いをモダニティの観点から考察しています。本論では谷崎潤一郎を弁天座時代に人形浄瑠璃を発見した「新しい観客」の(必ずしも典型的ではない)一事例として検討しています。


弁天座の谷崎潤一郎 
昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論

海老根 剛

1.人形浄瑠璃とモダニティ

 私たちが今日なじんでいる「人形浄瑠璃」という呼称が、それ自体、近代の産物であることはよく知られている。江戸末期まで人形浄瑠璃は「操」ないし「操芝居」と呼ばれていたのであり、「人形浄瑠璃」という呼称が用いられるようになったのは明治に入ってからである[1]。そして、明治以降の「人形浄瑠璃」の歴史は、これまで主に「近代化」(modernization)という観点から論じられてきた。それは、興行面について言えば、松竹合名会社という近代的企業によって文楽座が買収され(明治42年)、当初はいくつも存在した文楽座に対抗する勢力の試み(彦六座、稲荷座、堀江座、近松座など)がことごとく挫折することで、人形浄瑠璃の興行が松竹に一元化される過程である(近松座の解散は大正3年)。また上演演目の点から言うと、人形浄瑠璃の近代化は、すでに江戸末期に始まっていた「古典化」の過程のさらなる進展とみなすことができる。優れた新作の成立が途絶え、すでに評価の確立した一定数の作品が繰り返し上演されるようになる。それに伴って、演者の側ではそれぞれの演目で確立された表現の規矩(風)の継承という意識が強まるとともに、観客の側でもドラマから芸の鑑賞に関心の重心が移っていった[2]。しかし、この古典化の過程は、人形浄瑠璃が大衆的娯楽から「古典芸能」に変わることを意味してもいた。江戸末期から明治期まで続いた義太夫節の全国的人気が衰え、浪花節、新劇、映画といった新しい娯楽が台頭する大正期に入ると、人形浄瑠璃は急速に大衆娯楽の地位を失い、興行面で苦境に立たされることになる[3]

 こうした人形浄瑠璃の近代化については、これまで主に演者・興行側に立った視点から、すなわち、演者の世代交代、演目と組織の変遷、興行上の改革などに注目して、着実な検討がなされてきた[4]。しかし、その一方で、人形浄瑠璃を鑑賞する観客に焦点を合わせた研究はまだ少ないように思われる[5]。本試論のねらいは、上述した人形浄瑠璃の近代化の過程を観客の経験という視点から検討してみることである。そのさい本試論が注目するのは、昭和初年における新しい観客層の出現とそうした観客に関する当時の言説である。

 ただし、本試論が試みるのは、単に視点を演者・興行側から観客側に移すことではない。それと同時に「近代化」に代わる別の観点をも導入してみたいのである。それが「モダニティ」(modernity)という観点である。ここで言う「モダニティ」とは、時代(「近代」)ではなく、近代の大都市生活に典型的に観察される意識・知覚・経験の様態(「現代性」)を指している[6]。より具体的に言えば、資本主義的な消費の中心としての大都市における運動と速度の経験、断片的で移ろいやすい知覚、空間感覚の変容(速度による距離の圧縮)、合理化された時間(分秒単位で機能するシステムによる時間管理)、大量の情報の高速の流通(マスメディア)、匿名性の経験(無数の他人たちとのすれ違い)といったものが、モダニティの内実をなし、それが大都市の人々の感受性を形作る。モダニティという観点は、映画研究において、都市と映画の密接な関係を分析するにあたって生産的に活用されてきた。というのも、映画も都市もモダニティの経験がなされる場だという点で共通するからである。そのさい映画は、モダニティの経験(運動と速度、断片的知覚、匿名性など)を提供する装置であるだけでなく、(映画作品という形で)そうした経験を分節化し反省する表現でもあるがゆえに、モダニティの特権的なメディウムとして理解された[7]。 本試論では、人形浄瑠璃の観客の考察にモダニティの観点を導入することで、二つの事柄を検討してみたい。第一に、昭和初年における人形浄瑠璃と都市の関係を考察する。人形浄瑠璃とモダニティの関係を問うことは、人形浄瑠璃と同時代の都市空間の関係を考察することを意味する。第二に、人形浄瑠璃における「新しい観客」の登場を、モダニティの感受性を内面化した観客と人形浄瑠璃との出会いとして考察する。そのさい本試論では、特に弁天座時代(昭和2年から昭和4年まで)の文楽座に注目する。というのも、この時期は、御霊文楽座(大正15年11月焼失)から四ツ橋文楽座(昭和5年1月開場)への過渡期に当たっており、かつ人形浄瑠璃が不可抗力的に同時代の関西モダニズム文化の中心地(道頓堀)に投げ込まれた一時期だったからである。そして、そうした弁天座時代の文楽座の「新しい観客」の一事例として、本試論は谷崎潤一郎を取り上げる。脚本部顧問として映画会社に在籍した経験があり、みずから映画評も執筆し、『痴人の愛』でモダン都市の風俗を活写した谷崎が、モダニティの経験と感受性を深く内面化した作家であったことは論を俟たない。その谷崎が関西移住後、人形浄瑠璃に深く魅了されたのが、弁天座時代の文楽座であった。谷崎が人形浄瑠璃について残した文章を検討することで、人形浄瑠璃とモダニティの出会いとすれ違いを素描してみたい[8]


[1]    倉田喜弘「輝ける明治文楽」、『岩波講座歌舞伎・文楽第十巻 今日の文楽』所収、岩波書店、1997年、五頁。石割松太郎は「人形浄瑠璃」という呼称の始まりを明治五年としている。石割松太郎「勾欄雑考」(昭和8年)、『近世演劇雑考』所収、昭和9年、岡倉書房、188-190頁。

[2]    高木浩志「幕末の名人たち」、『岩波講座歌舞伎・文楽第九巻 黄金時代の浄瑠璃とその後』所収、岩波書店、1999年、286頁。

[3]    倉田喜弘『文楽の歴史』、岩波書店、193頁。

[4]    『岩波講座歌舞伎・文楽第十巻 今日の文楽』第一部の諸論文、および前掲の倉田喜弘『文楽の歴史』第六章、第七章を参照。また当然のことながら、『義太夫年表』大正編・昭和編(和泉書院)も重要な基礎資料である。

[5]    吉永孝雄の『私説 昭和の文楽』(和泉書院、1995年)は、昭和の人形浄瑠璃における観客(劇評家も含む)の体験を生き生きと伝える貴重な証言である。また昭和戦前の人形浄瑠璃をめぐる議論を整理した次の論考も示唆に富む。森西真弓「四ツ橋文楽座開場前後 −文楽復興への動き−」、『藝能懇話』第十一号、大阪藝能懇話会、1997年、142-155頁。

[6]    Thomas Elsaesser, “City of Light, Gardens of Delight”, in Cities in Transition. The Moving Image and the Modern Metropolis, Ed. Andrew Webber and Emma Wilson. London: Wallflower Press, 2008, pp. 88-101.

[7]    次の拙論を参照。海老根剛「〈映画都市〉としてのマドリード アルモドバルの初期作品における都市表象をめぐって」、『表現文化』第9号、大阪市立大学、36-67頁。

[8]    したがって、本試論は谷崎の人形浄瑠璃についての文章を谷崎の文学的営為を解明するために読むことはしない。あくまでも当時登場しつつあった「新しい観客」の経験を伝える一事例(代表例ではない)として谷崎の文章を扱う。谷崎文学における人形浄瑠璃体験の意味については次の研究を参照のこと。佐藤淳一『谷崎潤一郎 型と表現』、青簡舎、2010年。

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