いくつか書いておきたいことがあったのに、諸々の雑事にかかずらっているうちに、あっという間に年度末になってしまった。すでに完全に時機を逸しているとはいえ、書かないままにしておくのも気持ちが悪いし、すぐに古びる作品でもないと思うので『ナミビアの砂漠』についてメモしておきたい。
私が最初に見た山中瑶子監督の作品は『あみこ』(2017年)だった。わりと退屈したのを覚えている。ロケーション撮影はとても魅力的だし、主演女優の個性も際立っていて、台詞も面白い。でも結局のところ、「アンチリア充の逆張り青春映画」と括れてしまうところが、あの映画にはあった。ネタとしては笑えるのだが、スパゲッティを汚らしく食べるのも、綺麗な先輩を見て騒ぐ同級生を冷たく見下すのも、ラストシーンで指に書かれたPUREの文字も、アンチの自意識と自虐の身ぶりの混合物であるように感じられた。極めつけは、主人公が駅の構内でカップルを引っ張り出して踊る場面で、踊り終わったあと、主人公は「日本人は心のままに踊り出したりしねえんだよ!」と言い放つ。この場面を見て、心底退屈したのだった。
二十歳くらいの若者は往々にしてこういう「逆張り」に走りがちなので、目くじらを立てるほどのこともないのだが、逆張り的な態度が退屈なのは、仮想敵である主流派に反旗を翻すかにみえて、実際にはそれに依存しているからである。逆張りに走る人間は自分の足でこの世界に立っていない。周囲の動きに反応しているだけである。だから退屈なのだ。2018年の『21世紀の女の子』に山中監督が寄せた短編も、まだそこから脱却できていなかったように思う。フェミニスト的な問題意識が鮮明で、個性的な女優陣を揃えていながらも、男が支配する世界についての「あるある話」を語り合うだけで終わってしまったように感じた。男の世界が描いた絵にいちゃもんをつけているだけのように見えた。一方、『ナミビアの砂漠』では、逆張り的な態度がほぼ完全に払拭されている。この映画は、ひとりの女性監督がみずからの足でこの世界に立ち、そこで考え感じたことだけから作られているように感じられた。これは若き天才監督の閃きの産物などではなく、長い時間をかけて積み重ねられた勉強と努力の賜物だと思う。
ここでは「フレーム/フレーミング」という観点から、『ナミビアの砂漠』に接近してみたい。というのも、この映画の独自性は、なによりもまず、そこに見てとれると思うからである。
『ナミビアの砂漠』では、スタンダードサイズのフレームが、男女間の構造的不正義を可視化する装置として機能している。いま日本社会で暮らす異性愛カップルの現実は、多かれ少なかれ、例外なく、この構造的不正義によって汚染されている。一見古風なスタンダードサイズのスクリーンが、そうした現実を描くのにこれほど有効でありうるとは想像しなかった。さらにこの作品は、そんな現実を生々しく描き出すだけでなく、そこに潜むユートピア的な次元をも提示してみせる。この点にも簡単に触れてみたい。
『ナミビアの砂漠』がスタンダードサイズで撮影されている第一の理由は、もちろん、主人公のカナ(河合優美)を、(映画が描く)世界の中心に位置づけるためである。とりわけ映画の前半では、スタンダードサイズのフレームの中央に、ほとんどつねにカナの身体があり、その存在感で観客を圧倒する。この映画のフレーミングは、カナを画面の中央に位置づけることで、男を周縁化する。たとえば、カナとホンダが緊張した空気のなかで言葉を交わす場面では、カナを映し出すフレームの端にホンダの身体の一部だけが見えていることが多い。カナの姿が画面の中心を占めるのに対して、ホンダの身体は周縁化され、断片化されている。一応、切り返しショットでホンダの姿が示されることもあるが、カナを映すショットに較べてその頻度は少なく持続時間も短いので、上記の印象が強化されることになる。
スタンダードサイズで男女のツーショットを撮るときに、まっさきに思い出されるのはハリウッドの古典映画だろう。そこでは、たいてい、男女の身体が画面の左右にバランスよく配置されている。恋愛映画であれば、男女の身体をシンメトリックに配置する安定感のある構図から始まり、何度か繰り返される切り返しショットを経て、キスシーン(二つの顔をきれいに画面におさめるクロースアップ)にたどり着く。『ナミビアの砂漠』はスタンダードサイズを採用しながらも、古典映画的な安定感を一貫して回避しつづける。だからこそ、映画の終盤に登場する、カナとハヤシをシンメトリックに配したツーショットが効果を発揮するのである。
もちろんカップルの物語を女性の視点から語ることは珍しくないし、男性監督こそが女性主人公の身体を特権的な被写体として恋愛映画を作ってきたと言うこともできる。だから、かりに『ナミビアの砂漠』のスタンダードサイズのフレームに独自性があるとするなら、それは単に、主人公の女性を画面の中央に示し続けるからではない。そうではなく、そうしたフレーミングが、映画によって示される世界の構造と鋭く対立し続ける点が重要なのだ。スタンダードサイズによるフレーミングがカナの身体を画面の中央(=世界の中心)に位置づけようとするのとは対照的に、そこで描かれる世界では、カナは絶えず周縁に追いやられる。カナが暮らす世界の構造と、彼女を示すフレーミングのあいだには根深い齟齬があり、両者のあいだでつばぜり合いが繰り広げられているのである。『ナミビアの砂漠』のスタンダードサイズのフレームは、みずからの欲望と意志に忠実であろうとする一人の女性の身体が、その自由の行使を全力で阻止しようとする社会の力と激しくせめぎ合う場になっている。私たち観客は、カナの身体がこの抗争を一瞬ごとにくぐり抜けてゆく(=サバイブしてゆく)さまを目撃するのである。
カナが男たちによって周縁化され続けていることは、一見するとなんてことのない日常の描写のなかに示されている。男女間の構造的不正義は、平穏に見えるときにこそ効力を発揮して、カナを縛りつける。彼女はそれを感じて不機嫌になる。
たとえば、映画の冒頭、浮気相手と遊んだ後に泥酔状態で帰宅したカナを、同棲相手のホンダ(寛一郎)は甲斐甲斐しく介抱する。トイレにこもるカナにペットボトルの水を渡し、ピルを飲ませて靴下を脱がせ、身体を抱えあげてベッドに運びながら、服を脱がせて寝かしつける。その手慣れた様子からは、それが彼らの日常の一部であることが感じられる。ホンダはいつでも優しく思いやりに溢れ、カナの意思を最大限尊重しているようにみえる。しかし、本当にそうだろうか? ここには男性が女性を庇護するという権力的な図式がある。何でも許してしまうこの男は、カナをわがままな子どものように扱っている。ホンダのナルシスティックな優しさによって、一見するとそうとは見えない仕方でカナは周縁化され続ける。ホンダにとって、カナは「籠の中の小鳥」なのだ。もちろん飼い主は小鳥に自由に籠の外に出ていくことを許すのだが、戻ってくることが前提であり、籠の中にいるのは、ホンダではなくつねにカナなのである。カナが本心を偽ってホンダをサディスティックにいたぶるのは、こうした関係性に対する復讐でもある。
ホンダの支配を逃れたカナは、ハヤシのもとに向かう。しかし、そこでも同じ経験をすることになる。ハヤシは仕事にかまけてカナをほったらかしにする。彼女の空腹の訴えを無視して仕事を続ける。そのときハヤシはカナをネグレクトしているのだが、もちろんハヤシはそう感じていない。カナがネグレクトに抗議するとハヤシは逆ギレする。ハヤシはあからさまなマッチョではないし、どちらかと言えば、優しい男だ。それでもハヤシは、カナのことを、おとなしく自分のそばにいるべき存在だと思っている。彼の欲望と気分に合わせて生活し、必要に応じて、彼の性欲を満たしたり、彼を励ましたりすべきなのだ(ママと娼婦!)。ハヤシは自分の振る舞いをごく自然なものと感じており、当然、自分にはそのように振る舞う権利があると思っている。そして、自分のおかげでカナが気ままな「籠の鳥」でいられることを、彼女へのやさしさ、思いやり、愛の証であるとすら感じている。こうして、ハヤシとの関係においても、カナは周縁に追いやられ続ける。
カナの不機嫌も、暴言も、暴力も、日常的に積み重なってゆく周縁化の経験に対する憤りの表れであって、男たちの特定の行動に対する直接的な反応ではない。しかしもちろん、男たちにはそれが理解できないので、カナの怒りは、彼らにとって過剰で理不尽なものに感じられる。だが、この映画でカナの言動が理不尽で不条理に思える瞬間は、個人的経験の社会的次元があらわになる瞬間でもある。怒りの爆発のなかで、個人化の呪縛が克服され、カナの周縁化の経験が、この社会で生きる(生きてきた)多くの女性たちの経験と結びつくのである。カナがホンダに対して口にする中絶の嘘や、胎児のエコー写真を材料にしたハヤシへの糾弾は、こうした文脈のなかにある。もちろん、それは嘘であり、ほとんど言いがかりめいた断罪である。しかしそれでも、カナの経験が、「双方の合意のもとに」中絶する女性たちの経験とまったく無縁だとは言いきれない。夫と妻のどちらの姓も自由に選べる建前でありながら、現実にはカップルの94%が夫の姓を選択する社会において、「双方の合意」は本当にその名に値するものなのだろうか? そこにも男女間の構造的不正義が介在してはいないだろうか? カナは怒りの爆発のなかで、みずからの経験と他の(想像上の)女性たちの経験との結びつきを発見する。
自分は男たちにとって「籠の鳥」のような存在なのだと認識するにつれて、カナは自分が周囲の環境に閉じこめられているように感じ始める。スタンダードサイズのフレームが第二の意味を獲得するのは、このときである。すなわち映画が進むにしたがって、そのフレームはカナを閉じこめるものとしても機能し始めるのである。そうしたフレームの機能がもっともあらわになるのは、カナが男のいない部屋にひとりでいる場面である。また同じ閉塞感は、彼女がシャワーを浴びながらなにやら唸っているショットにも感じられる。ただ、興味深いのは、カナを閉じこめるフレームの力が観客にはっきり感じとられるようになるときに、同時に、その外部の存在も示唆されることである。たとえば、カナのスマートフォンの画面に映るナミビアの風景や隣の部屋から聞こえてくる英会話練習の声は、カナが囚われている閉域の外部を示唆している。
じっさい『ナミビアの砂漠』は、周囲の環境によって周縁化される主人公に寄り添うだけでは終わらない。終盤に向かうにつれて、映画はみずからの眼差しをラディカルに更新してゆく。そしてそれもまた、フレーム/フレーミングの変化として遂行される。最後にこの点を手短に確認しておきたい。
そもそもカナがハヤシを詰問する場面は、ホンダとの場面とは異なる仕方で撮影されていた。カナを中央に配置するフレーミングによってハヤシの身体が断片化されるのではなく、むしろカナの身体がフレームの端に置かれ、ハヤシが画面の中央に示される。そこではカナが周縁化されたポジションから、ハヤシを攻め立てているように感じられる。
だが、そうした変化よりもはるかに決定的なフレーミングの転換がある。それは唐突に始まる3回目の喧嘩の場面に見ることができる。それまでの喧嘩の場面では、つねに手持ちカメラが用いられ、カナとハヤシの激しいアクションが、不安定なカメラの動きとカット割りで示されていた。一方、3回目の喧嘩の場面では、カメラはまったく微動だにしない。三脚に固定されたカメラは、あたかも野生動物の生態を定点観測するかのように、客観的な距離感をもって二人のアクションを記録する。その後、手前の部屋から二人が格闘する奥の部屋へとカメラポジションが変わっても、カメラは固定されたままであり、二人の動きをパンによってフォローすることはない。結果、二人のアクションは不動のフレームの枠からはみ出してしまう。
スタンダードサイズのフレームを用いてカナという女性に寄り添い、彼女を世界の中心に位置づけようとしてきた映画は、ここで視点を大胆に切り替える。カナやハヤシに焦点化するのではなく、二人の関係をより高い位置から俯瞰するようになるのである。それは個人から社会へと視点の次元を切り上げることを意味する。いまや照準されるのは、カナとハヤシをともに拘束する社会の構造なのである。じっさい、この引きの固定画面による喧嘩の場面は、ピンク色の壁に囲まれた空間でランニングマシンに乗るカナの映像に移行する。そのときカナは、マシンに固定されたスマホに映し出される自分たちの喧嘩に視線を落とす。しばらくすると彼女はイヤホンを外し、マシンを降りて、階段を上って部屋から出る。そのさい観客に示されるのは、何やら巨大な機械装置が並ぶ空間である。この人工性の極致のような場面は、もちろんひとつのアレゴリーであり、カナの置かれたシチュエーションを絵解きしている。じっさい、このあとカナは自分を対象化し、状況を俯瞰することを学び始める。カナは自分の状況を理解するために女性カウンセラーのもとを訪ね、隣室の女性と不思議な対話をすることになる。
最後の場面で、再度、この映画の視点は変化する。すでに述べたように、この場面は、カナとハヤシを画面の左右にシンメトリックに配置する、古典映画的な安定感を備えたショットから始まる。最初に二人の位置関係を観客に示したうえで、切り返しショットで彼らのやりとりを構成していくこと。それまで周到に避けられていた古典映画のカット割りが唐突に現れる。さきほど、二人の喧嘩を引きの固定画面で示すショットを「定点観測的」と呼んだが、このラストシーンの距離感はそれとは微妙に異なっている。この場面を構成するショットの連鎖は、社会学者のような分析的な眼差しで、二人の男女を社会構造の犠牲者として提示しているわけではない。むしろ、カナとハヤシが自分たちの関係に対して感じる困惑(「わからない」)を丁寧に描き出し、その困惑の共有(逆説的な「わからなさ」の共有)に含まれるユートピア的な次元を映画に導入するのである。
このユートピアの次元は、映画の最後に示されるナミビアの砂漠の動物たちの映像によっても示唆されている。これが『ナミビアの砂漠』に登場する最後のフレームである。人工的な映像によって描き出される光景が、ユートピアなのではない。その映像は「他なるもの」を指し示す記号であり、いま現にある世界の「外」を示唆するアレゴリーである。では、このユートピアの次元に含まれているものは何だろうか? ドイツの女性作家シェイダ・クルト(Şeyda Kurt)の言葉を引いてみたい。彼女は最近ブレヒトの初期戯曲を脚色したが、そのさい次の対話を付け加えた。クルトがブレヒトの戯曲に書き込んだもの、それも同じユートピア的次元であるように思える。
Marie: Wonach sehnst du dich noch?
Anna: Nach Verbundenheit ohne Unterwerfung. Nach Zärtlichkeit ohne Lügen. Nach Kummer tauschen und keine Ringe. Nach Familie, die nicht in Blut,Boden und einem Erbe von Leichen wurzelt.
Marie: Die Frau ist die erste Kolonie der Geschichte.
マリー 「なにをまだ望んでるの?」
アンナ 「服従のない結びつきを。嘘をともなわない優しさを。指輪ではなく、心の苦しみの交換を。血と大地と死体の遺産に根ざすことのない家族を。」
マリー 「女は歴史における最初の植民地だ」