『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』のフレーム
戯曲を映画に翻訳するということ

先日、国立国際美術館で開催された「松村浩行 レトロスペクティブ」でようやく『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』を見ることができた。この作品については、ずっと昔から、僕が信頼する知人・友人に話を聞いていて、どこかで見る機会はないものかと思っていたので、唐突に降って沸いたような(もちろん実際にはそんなわけはなく、周到に準備されていたのだが)今回の上映を実現してくれた方々には感謝の念しかない。

映画は不可能性に直面するときにのみ、みずからの力能を解き放つことができる。この不可能性はなにやら深遠な思想的問題などではなく、むしろ映画制作にまつわる具体的な事柄のうちに多様な仕方で存在している。たとえば、それは映画制作の経済的条件や制度上の拘束、技術的な限界や観客の受容能力、素材そのものに内在する抵抗などであり、それらはすべて社会的であり、政治的であり、歴史的である。というか、そうした限界に具体的に触れる作品だけが、映画という表現のその時々の成立条件を証言するという意味で歴史に属する。

映画が他のジャンルの表現と真正面から向き合うときにも、映画がみずからの力能を解き放ちうる局面が生じうる。そうしたとき、映画はしばしば一連の不可能性に直面することになるからである。私自身はとりわけ文学や思想の言葉と映画が向き合うときに起きることがらに魅了されていて、これまでにロメールファスビンダークレール・ドゥニの映画について文章を書いてみたことがある。今回ようやく見ることができた松村監督の『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』は、すでに聞いていたとおり、ブレヒトの教育劇を映画に翻訳する試みとして比類のない作品になっていて、途方もなく刺激的な映画体験をもたらしてくれた。戯曲テクストの映画化という点では、この映画における言葉(台詞)の作業が重要なのはもちろんだが、それについては監督自身の見事な文章がすでにあり、そこに付け加えるべきことはほんどないように思える。(ただ映画における言葉の可能性についてのもうひとつの比類ない試みとして、桝井孝則監督の『夜光』を挙げておきたい。この作品も長らく上映されていないので、ぜひ『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』と『夜光』をセットで上映する企画を実現できないものか。)そこでここではフレームという観点から、この作品がブレヒトの戯曲をどのように映画に翻訳しているのかについてメモしてみたい。とはいえ、なにしろ初見なので、かなりざっくりした話になってしまうかもしれない。

ブレヒトの三つのテクスト Der Jasagar / Der Neinsager / Der Jasager (die zweite Fassung) を三つ並べてみたときに際立つのは、その反復構造である。二つのシチュエーション(少年と母親の部屋/山道)からなる大きな構成が正確に反復されるだけでなく、台詞のレベルでも、多くの場合、正確に同じ言葉が繰り返される。この機械的とも言える反復構造は、ブレヒトがこれら三つのテクストを書いた方法と密接な関係にある。この戯曲はそもそもエリザベート・ハルトマンによる能『谷行』の翻訳をベースにしており、その翻訳テクストに加筆修正を加えることで最初の Der Jasager が成立した。さらにブレヒトは Der Neinsager を書くにあたっても、Der Jasager の最初のバージョンが印刷されたページを下敷きにして、それに修正を加えるという仕方で作業している。つまり、これら三つの戯曲は、劇作家が一から創作するのではなく、既存の言葉に手を入れることで成立しており、戯曲の言葉を機械装置の部品ないしはパズルのピースのように扱い、それらを組み合わせ、組み換え、置き換えることで作られている。『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』を見ると、この特殊なテクストの構造が、ショットの人工的な配列と組み換えに依拠する映画の原理にきわめて親和的であることに気づかされる。クライストの文体がその複雑に入り組んだ文章構造の内部に映画を内包していたように、ブレヒトのテクストもまた映画に呼びかけていると言えるかもしれない。

この戯曲ではシチュエーションだけでなく、登場人物もまた人工的である。この戯曲の登場人物には固有名がない。彼らは人格をもった個人ではなく、社会的機能によって定義される存在である。そのさい重要なのは、人物それ自体ではなく、人物のあいだの関係である。

  • 先生:指導者であり、特別な知と経験を所有しているとみなされている権威的存在である。
  • 学生たち:指導者の弟子たちであり、ひとつの団体を構成する。彼らは指導者のもとに集まった同志たちであり、その団体は党と呼ぶこともできる。
  • 母親:世間一般の人々の一人であり、先生の教えを知ることはないが、先生に対して自然な敬意を抱いている。
  • 少年:この人物は特殊な位置を占めている。一方において、少年は世間一般の人々の一人であり、母親と結びついているが、他方では、先生の生徒であり、学生たちの団体に属してはいないが、それと無関係ではない。

これら4人の登場人物に加えて、以下の要素も戯曲の重要な構成要素である。

  • 共同体:これは改稿版「イエスマン」で最も強く打ち出される要素で、先生と学生たちの旅は共同体の危機を救うという目的を与えられることになる。この要素によって、共同体の利害と個人の利害の対立が導入される。
  • しきたり:共同体に受け継がれてきた知恵であり、慣習である。しきたりの背後にあるのは共同体の過去の経験であり、個人を超えた社会の審級である。少年は未来であり、このしきたりと対立する可能性を秘めている。
  • 室内と室外:前半のシチュエーションが展開する場所。ここでは少年、母親、先生の対話が展開する。
  • 山道と小屋:後半のシチュエーションが展開する場所。ここでは少年、学生たち、先生の対話が展開する。

ブレヒトの戯曲は上記8つの要素を関係づけることで構成されており、この戯曲を映画に翻訳することは、それらの要素の関係づけを映画的な手段によって実現することを意味する。『YESMAN / NOMAN / MORE YESMAN』では、それが厳格なショットの構成によってなされている。とりわけ、どの瞬間にどの要素をどのように関係づけねばならないのかについて、徹底的に考え抜かれており、その結果、ひょっとしたら劇場での上演を見るとき以上に鮮明に、ブレヒトの戯曲を駆動する緊張関係と問いが浮かびあがるのである。

以下に初見で気づいた範囲で、ざっとショット構成の原則を列挙してみる(記憶違いもあるかもしれない)。

  • 先生と学生たちが同一のショットで(同じフレームの内部に)示されることはない。(ただ先生の前を学生たちが通り過ぎるショットはあったような気がする。)
  • 先生と母親が同一のショットで示されることはない。
  • 原則として、少年と学生たちが同一のショットで示されることはない。例外あり。
  • 原則として、少年と先生が同一のショットで示されることはない。例外あり。
  • 原則として、少年と母親が同一のショットで示されることはない。例外あり。
  • 原則として、少年と母親と先生が同一のショットで示されることはない。例外あり。
  • 先生と少年と学生たちが同一のショットで示されることはない。

すでに確認したように、ブレヒトの戯曲の4つの登場人物はそれぞれ異なる社会的存在であり、決して重なりあうことがない。映画は複数の人物を同じひとつのフレーム内に配置するショットを徹底して排することによって、この点を際立たせる。人物の対話は切り返しショットで示される。ただし、一見古典的な切り返しショットによって二人の人物が結びつけられる場合でも、しばしば二つのショットの異質性(不連続性)が強調される。たとえば、帰ろうとした先生を少年が呼び止めて旅に同行させてくれるように頼むところでは、先生を示すショットにはきわめて人工的な照明で木々の影が映っており、録音のノイズがかなりはっきりと聞き取れるのに対して、少年のショットには木々の影もなく、ノイズもほんの微かに聞き取れる程度である。

しかし、映画はまたいくつかの決定的な箇所で、みずから設定した原則から逸脱する。それらはすべて少年が関係するショットであり、この戯曲における少年の特殊な位置づけを際立たせる効果を持っている。以下に列挙してみる。

  • 先生が母親と対話する場面で、一度だけ、先生から少年にパンするショットがある。先生が斜め下に視線を向けるとカメラも下方向へ移動し、床に座って先生を見上げる少年が示される。
  • 先生が立ち去った後で、一度だけ、床に座る少年と彼を見つめる母親を同じフレーム内に示すショットがある。ここでも少年は母親を見上げ、母親は少年を見下ろす。この視線の上下関係は、先生と少年のあいだのパンと対になっている。
  • スプリットスクリーンの手法によって、少年、母親、先生の顔がスクリーン上に配列される箇所がひとつだけある。そこで三人は同じ内容の文章(少年の旅への決意)を人称代名詞を変えて発話する。異なる立場にいる3人の人物が、それぞれの立場から同一の事象について語るのである。
    ちなみに、この3人の登場人物を結びつけるモチーフはもうひとつある。それは円と円運動のモチーフである。まず少年はサッカボールを持って登場し、次に先生は床に置かれた兵士の人形の足にのせられたサッカーボールの周囲を円を描くように歩く。そして、最後に仕事に戻る母親を映すショットにおいて、カメラはミシン台のペダル車の円運動にズームする。円と円運動が少年から先生へ、先生から母親へと引き継がれるのである。
  • 少年と学生たちが例外的に同じフレーム内に示されるのは、先生の指示で学生たちが少年を谷に突き落としたり、少年を担いで難所を切り抜けようと試みる場面である。このとき少年と学生たちは、ともに先生の教えと大いなるしきたりにしがって行動している点で、同じ立場にあると言える。
    ちなみに、学生たちが少年を担いで軽く傾斜した梯のような障害物を渡ろうとするくだりでは、この映画で唯一音楽が使用されている。この音楽は、この場面における時間の流れ方の変化を際立たせる効果を持っている。じっさい、この場面はこの作品でもっともナラティヴな場面であり、リアルタイムではないフィクショナルな時間が流れている。このショットはせいぜい1分か2分程度の長さだったと思うが、物語的には数時間が経過しているだろう。他の対話場面が限りなくリアルタイムに近い時間経過になっているのとは対照的である。音楽の効果的な使用によって、能という語り物の芸能に起源をもち、叙事演劇というブレヒトのコンセプトによって導かれた戯曲の構造が鮮やかに示されている。

こうした厳格なショットの構成によって、少年の特殊な位置づけと、それゆえの既存の秩序を動揺させるポテンシャルが際立たせられる。そしてこのポテンシャルが顕在化するのは、もちろん山道で展開する一連の場面である。これらの場面は、人工的なセットで撮影された前半とはまったく異なる感触を持つショットで構成されていてとても魅力的だが、地面の傾斜が決定的な役割を果たしている。思いのほか長くなってしまったので詳細は省くが、地面の傾斜と人物の位置関係が、そのまま共同体と個人、しきたりと思考すること、過去と未来の力関係を可視化し、両者のせめぎ合う状況として現在を提示する。先生は学生たちと少年を見下ろし、学生たちは先生を見上げ、少年を見下ろす、そして少年は学生たちと先生を見上げる。しかし、先生もまた、さらに上位にある大いなるしきたりの力のもとで苦悩しているようにも見える。これは記憶違いかもしれないが、映画の最後で先生のシルエットの映像が、掲げられた壺の映像にオーバーラップしたような気がする。その映像はこの戯曲の核心にある緊張関係を凝縮していて、「未完」のこの作品の観客への問いかけになっているように感じた。

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