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If One Thing Matters, Everything Matters. / 「まき絵の冒険」(『MADE IN YAMATO』)

ペドロ・アルモドバルの『グロリアの憂鬱』(1984年)は、とても印象的なクレーンショットからはじまる。この映画はマドリード市の東側、M-30と呼ばれる環状高速道路に隣接したコンセプシオン地区を舞台にしているが、カメラはまずそれほど大きくない広場で撮影の準備をしている映画のロケ隊をやや俯瞰気味のロングショットで映し出す。このカメラはゆっくりと下降しながら右方向に移動していき、観客は、ロケ隊の人々が立ち話をしたり、車から荷物を下ろす様子を見ることになる。ふと気がつくと、画面の奥のほうから地味な身なりをした女性がひとり歩いてきて、ロケ隊の様子を見回しながら広場を横切っていく。彼女にはなんら目立った特徴はなく、エキストラの一人であるようだ。マイクを持ったスタッフが彼女にマイクを向けるが、それも戯れにしているようにしか見えない。このとき、カメラはずっと右方向への移動を続けているのだが、この移動の全体がこの女性の動きに動機づけられていることは、即座には明らかにならない。マイクを持った男性が彼女を追いかけるのを止めたあともカメラが右方向に移動を続け、彼女が建物に入っていくのを示すにいたってようやく、観客はそのことをはっきり知ることになる。このショットのあと、ド派手なタイトルに続いて私たちが見るのは、剣道の道場で蹲踞(そんきょ)の姿勢をしながら飛び跳ねる男たちの姿である。その次にようやく、床をふき掃除するカルメン・マウラの姿が示される。次にショットが道場で素振りをする男たちに切り替わると、そのフレームの片隅には、隣室で掃除用具を持って素振りの真似事をするマウラの姿が小さく映っている。

 アルモドバルは、こうしたショットの連鎖によって、この作品の「主人公」が、およそ映画の主人公には似つかわしくないようなひとりの女性であることを示唆している。映画に描かれることも、ましてやみずから出演することも決してなく、ただロケ現場のかたわらを通り過ぎてゆくだけの存在であるようなひとりの女性。そんな女性の人生に『グロリアの憂鬱』は捧げられている。

 竹内里紗監督の「まき絵の冒険」を見ながら、私は『グロリアの憂鬱』の上記の場面を思い出していた。ショットの連鎖としてはまったく似ていないけれど、「まき絵の冒険」でも、まず運動する男の身体が示され、それから体育館の片隅でふき掃除をする一人の女性の姿が示される。それだけではなく、このふたつの映画には、共通する問いかけがあるように感じられる。世界の片隅に生きるひとりの人物を、映画はどのように描くべきなのか? 片隅に暮らす人物にふさわしく、優しい眼差しでささやかな幸福を言祝ぐべきなのだろうか? それとも、あえてその人物を世界の中心にすえて、ドラマを用意し、「映画の主人公」のように描くべきなのか? おそらくそのいずれでもないだろう。それらのやり方はいずれも、結局のところ、この世界で何が大きくて何が小さいのか、どこが世界の中心であり、どこが片隅なのか、誰がこの世界の主人公で、誰が脇役なのかについての通念化した物差しを前提している。肝心なことは、その物差しを疑うことであり、その物差しを手放したときに見えてくる世界に目を凝らすことである。そのとき世界の相貌は確実に変わりはじめる。

 それを試みるにあたって、「まき絵の冒険」は、私たち観客にたったひとつのことだけを求めている。それはまき絵さんという女性が物事を行うやり方を注意深く見つめることである。彼女が清掃員の仕事をする様子を、お昼休みに地図を拡げておにぎりを頬ばる姿を、買い物や散歩に出かけるときに自宅の玄関の扉に鍵をかけて歩き出すまでの一連の動作を、川辺の散歩道で柵に両手をかけて、身体を伸ばしながら対岸を見やるその仕草を、丁寧に見つめること。私たちにそれができれば、彼女は彼女自身として、私たちの前に現れてくる。そして彼女がこの世界に存在する仕方も、彼女が周囲の世界ととり結ぶ関係も、少しずつ、生き生きと感じとれるようになる。

 彼女を彼女自身として感じとれるようになるまで、丁寧に、まっすぐに、彼女が物事を行うやり方を見つめること。それは決して容易なことではない。私たちが暮らすこの社会では、ひとりの女性の姿が –– しかももはや若いとは言えず、結婚もしていない女性の姿が –– スクリーンに映し出されるとき、(特に男性の)観客はただちにいくつもの偏見に満ちた出来合いのイメージで彼女を上書きしてしまう。竹内監督は、当初、主演の兵藤公美さんが演じるまき絵さんの職業を図書館の司書に設定していたという。だとするなら、彼女の職業を清掃員に変更したことで、監督は自身と観客に対してハードルを高く設定し直したと言える。正直に書いてしまうと、まき絵さんが堀夏子さん演じる友人に「いまの仕事はどう?」と尋ねられて、「自分に合ってると思う」と答えるのを聞いたとき、私は、一瞬、虚を衝かれた。彼女がその言葉を口にしたとき、そこにはいささかの卑下も強がりも感じられなかった。事実、彼女がいやいや掃除の仕事をしていることを示唆するような描写などまったくなかった。にもかかわらず、私はその台詞に虚を衝かれたのである。そのとき私は、自分が心のどこか片隅で彼女の境遇を憐れんでいたことに気づかされた。私もまた彼女を彼女自身としてまっすぐに見つめることができていなかったのだった。まき絵さんの言葉をあのように響かせることに成功したとき、竹内監督と兵藤公美さんは、観客に最後のハードルを越えるチャンスを(あるいは試練を?)を差し出していると言えるのかもしれない

 まき絵さんは体育館を掃除しながら、あるいはお昼休みにベンチに寝そべったときに、さらにはまた夜の散歩の途上で、同じステッカーが目立たぬ場所に貼られているのを発見する。彼女はそれらのステッカーを集め、見つけた場所を役所が発行している冊子の地図に書き込んでいく。そうすることで彼女は、自分が暮らす街に自分だけの地図を重ね合わせる。それは「あなたはそこにいてはいけない」と警告される存在でもあった彼女が、自分の生活する空間を制度的な力から奪い返すプロセスでもある。彼女が大和市の地図を拡げる様子を見つめる観客は、『北の橋』(1981年)の一場面を思い出すだろう。まき絵さんの冒険は、パスカル・オジエの冒険と響き合っている。しかし私はまた、バカンスをパリでひとりで過ごすのが嫌で右往左往するマリー・リヴィエールが、路上でトランプのカードを見つけてその意味を思案する『緑の光線』(1987年)のことも思い出していた。

 「まき絵の冒険」が『緑の光線』と接点を持つように私が感じたのは、このトランプのエピソードのせいだけではない。なによりもまず観客の注意力を操作してその眼差しを支配しようとしないショットのありようが『緑の光線』を連想させたのだった。この映画では人物の対話が切り返しショットで示されることはほとんどなく、まき絵さんが仕事をしたり散歩をしたりする様子もカットを細かく割ることなく示される。そして、たとえば、彼女の住む家を真正面から示すところから始まり、玄関の扉が開いてまき絵さんが出てきて、扉を閉め、まっすぐこちらに歩いてきて、カメラの傍らをフレームアウトするフィックスショット(これは2回繰り返される)や、まき絵さんがひとりで川辺に座り込んで水に触れてみるショット、あるいはまき絵さんが友人と散歩をするのを後退移動で示すショットにおいて、私たち観客は決してまき絵さんだけを見るように強制されていない。人物を中心に置きながらも、それらのショットには十分な余白が残されていて、その余白にはいくつもの小さな動きが息づいている。私たちはしばしまき絵さんから注意を逸らし、それらの小さな動きを見つめることができるのだ。『緑の光線』にある私が大好きな場面で、マリー・リヴィエールが女の子にプライヴェートな事柄を根掘り葉掘り聞かれてだんだんと余裕をなくしていく様子を真正面から示すショットにも、同じ自由が息づいている。あの場面でも、私たち観客は自由に視線をさまよわせることができた。そのようなショットのあり方は、「まき絵の冒険」の場合、倫理的なものである。もしこの世界に中心も周縁もなく、主役も脇役もないならば、どうしてひとつのショットのなかに確固たる中心と周縁の構造を設定することができるだろうか、見られるべきもののあいだの階層秩序を、自明のものとして観客に強制することができるだろうか。あるひとつの事柄が重要ならば、すべての事柄が重要である。それは映画において、なによりもまず、ショットの問題である。

 こうした点でとても魅力的な場面が「まき絵の冒険」にはある。まき絵さんと友人が散歩をしているときに、対岸でなにやら白い布を頭から被った三人の人物を見つけるくだりである。風に揺れる大きな木のまえで柵に手を添えて対岸を見つめるふたりを正面から示すショットに続いて、3人の白い布を被った人物がハグし合う様子が示される。まき絵さんが「でもなんか悲しそう」と言うと、友人は「そう? 楽しそうじゃない」と答える。また2人を正面から示すショットになり、まき絵さんが「呼んでる?」と言うと、友人は「いやだ」と言って逃げ出すようにフレームアウトする。ひとり残されたまき絵さんはしかし、怖がる様子はない。まき絵さんは対岸の人物たちに手を振ってから駆け出していく。同じひとつの出来事に対する複数の視点、複数の反応が、どちらを優先することもなく、対等な資格でひとつのショットのなかで共存している。二人の人物はそれぞれの人生を生きてきて、それぞれの物事の感じ方、考え方を持っている。それらはいずれも否定されるべきものではない。この場面に私は、私たちが複数であることの肯定を感じた。

 友人と川辺の道を散歩しながら、まき絵さんが対岸の壁に書かれた数字を読み上げていく素晴らしい場面で、私たちはそれまでごくささやかなものに感じられていた時間と空間がいつのまにか巨大な広がりを獲得していることに気づき、思わず息を飲む。川辺の道に流れる現在の時間は、誕生の時にまで遡り、未定の未来まで拡がっていく。この現在の先にあるだろう死の瞬間すら、かすかに予感される。街を流れる何の変哲もないように見える小川は広大な海へと通じていく。そうしたことに気がついて、観客は軽い眩暈を覚えることになる。『北の橋』(パスカル・オジエ)、『緑の光線』(マリー・リヴィエール)、『グロリアの憂鬱』(カルメン・マウラ)の主人公たちと響き合う、まき絵さんの冒険は、私たち観客の冒険でもある。

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