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ディズニー・フォーマリズム(クリス・パラント)

訳者付記

本務校の授業で使用するために日本語訳した文章を公開します。今回訳出するのは、クリス・パラント著『ディズニーを脱神話化する』(Demythtifying Disney. A History of Disney feature animation. 2011)の第3章「ディズニー・フォーマリズム」(p. 35-53)です。著者のクリス・パラントはイギリス・グリニッジ大学のアニメーション研究者で、2019年から2023年まで国際アニメーション学会の会長を務め、2021年には Bloomsbury から出版された4巻本の論集 Animation: Critical and Primary Sources で編者を務めています。『ディズニーを脱神話化する』は、第一部でまずディズニー映画における作家性の特殊なありようと「アニメーションの父としてのディズニー」というパブリックイメージを批判的に再検討し、その後、第二部と第三部で、初期から2000年代のネオ・ディズニーを経て、ピクサーのデジタル・アニメーションに至るディズニー・スタジオのアニメーション作品の展開を多面的に考察しています。170頁足らずのコンパクトな分量でディズニー映画の変転を鮮やかに描き出す本書は、本来であれば、とっくに日本語に訳されていてしかるべき書物だと言えるでしょう。全国の大学で毎年書かれるディズニー関連の卒論の多さを考慮するなら需要は十分ありそうなのに、本書の翻訳出版がスルーされてしまったのは不思議でなりません。今回訳出した第三章では、『白雪姫』、『ピノキオ』、『ダンボ』、『バンビ』の4作品で確立されたディズニー・アニメーションのスタイル(ハイパーリアリズム)の特徴が、「ディズニー・フォーマリズム」という概念のもと、具体的に論じられています。なお、あくまでも授業用教材としての翻訳ですので、日本語としての読みやすさを重視した訳文になっています。また本文中にある文献への注記は訳出していますが、参考文献リストは訳出していません。卒論その他で参照する場合には、必ず原典を確認してください。著作権その他の理由で予告なく公開を中止する可能性があります。

ディズニー・フォーマリズム

クリス・パラント(翻訳:海老根 剛)

[ ]は原著者による補足、〔 〕は訳者による補足を示す。

導入

 「古典的ディズニー」(Classic Disney)というフレーズは、近年、その意味合いを変化させてきた。すなわち、ディズニーをめぐる無数の議論のなかで用いられる一見単純明快な用語に思えたものが、ディズニー・スタジオの長編アニメーション映画に批判的に取り組むのを支援するには明瞭さを欠いた用語になってしまったのである。こうした状況に対応すべく、本章および本書の全体を通して、「ディズニー・フォーマリズム」(Disney Formalism)という用語を、「古典的ディズニー」に代わるものとして展開してみたい。この用語〔ディズニー・フォーマリズム〕は、『白雪姫と七人の小人』(1937年)、『ピノキオ』(1940年)、『ダンボ』(1941年)、『バンビ』(1942年)の4作品において作り上げられた美学的スタイルの形成と持続に直接的に関係づけられるだろう[1]。

「初期ディズニー・スタジオの高水準の創造性を確立した」(Watts 1997, 83)これら4作品は、ディズニー・フォーマリズムによるアニメーションの基盤を形成している。この8年間(『白雪姫』の製作開始から『バンビ』の公開まで)の間に、ディズニーはアニメーションに対するもっとも印象的かつ独創的な貢献を成し遂げたのである。基本的に、ディズニー・フォーマリズムのイデオロギーは、芸術的洗練、キャラクター〔登場人物〕と文脈の「リアリズム」、そして何よりもまず、信じられること〔もっともらしさや説得力〕(believability)を優先した。だが、前述の4作品がそうした芸術的モデルの確立をどのように後押ししたのかを論じる前に、まずは「古典的ディズニー」というフレーズが正確に何を指し示すに至ったのかを確認するのが有益だろう。

  

「古典的ディズニー」を解明する

 その初期の用法では、「古典的ディズニー」という言葉は、質的な観点からアニメーションの時代区分を行うために用いられた。たとえば、1973年にレオナード・マルティンは、『ベッドかざりとほうき』(1971年)にある、アニメーションと実写が併用される場面を論じながら、このシークエンスは「最近のディズニーの長編映画のそれとは「非常に異なっている。(…)まずドローイングがずっと滑稽であり、キャラクターのスタイリングも近年の長編映画で用いられるラフな描線を用いる方法よりも、古典的なディズニーの型(classic Disney mould)に近い」(1973, 262)と述べている。この用語の明示的意味は1980年代に劇的に拡大した。1983年に『アメリカン・シネマトグラファー』誌に寄稿したアート・シフリンは、「古典的ディズニー」という言葉を産業的側面の比較をするために用いている。シフリンの記事は、トマス・エジソンのキネトフォン(kinetophone)およびその撮影装置によって記録された画像の鮮明度(fidelity)を扱っているのだが、みずからの議論を練り上げるためにアニメーションに言及している。

これらのフィルムに固有の問題は、個々のコマ画像が現在の比較可能なコマ画像と較べて、少なくとも5割ほど長く露光されねばならないことである。そのため、特に口元の動きのニュアンスが減少する。それゆえ、ある種の動きは安っぽいアニメーションの動き、たとえば古典的なディズニーの製品(Classic Disney production)よりも時間単位のセル数が少ないアニメーションの動きを彷彿とさせる。(1983, 125)

マルティンの言及とシフリンのそれとの間には、強調点の移動がはっきり認められる。マルティンが古典時代に言及しているのに対して、シフリンはアニメーションを歴史化することにあまり関心を抱いていない。その代わりに彼は、「古典的ディズニー」の製作方法とディズニー・スタジオの品質への献身を引き合いに出しているのだ。

 家庭用ビデオ市場が出現すると、ディズニーは「古典的」(Classic)という言葉を横領し、長編アニメーション映画のVHSビデオ発売のために利用した。「クラッシックス」(The Classics)レーベルのもとで最初に発売されたのは『ロビン・フッド』(1973年)であり、1984年に流通し始めた。1980年代を通して、ディズニーは既存の長編アニメーション映画を再商品化するために、このシリーズを利用した。フレデリック・ワッサーは次のように書いている。

古典的な映画作品はビデオよりもずっと以前に計画され、製作されていたが、これらの古いアニメーション作品のビデオ版は、ディズニーをビデオ市場のトップに押し上げるのに決定的な役割を果たした。会社の重役たちは、期間限定でビデオテープを販売することによって古典作品(the classics)の商品としての寿命を最大化するという決断を下した。期間限定にすることで、際限なくビデオテープを流通させて市場を溢れさせることなく、販売を最大化するのである。古典的アニメーションのライブラリーを枯渇させないようにすること、そしてさらなるライブラリーを構築することが課題となった。[ジェフリー・]カッツェンバーグは古い古典作品を補充するために、新しいディズニー・クラシックスを作ることを決断した。(2001, 165 強調引用者)

当初、ディズニーは「クラシックス」シリーズを、最も人気があり成功もした長編アニメーション映画の商品寿命を引き延ばす手段とみなしていたが、その後、実写とアニメーションのハイブリッド作品の多くもまた「クラッシクス」の旗印のもとで発売された(たとえば『メリー・ポピンズ』[1964年]、『ベッドかざりとほうき』など)。「クラッシクス」シリーズの成功のせいで、ディズニーの劇場公開された長編アニメーション映画は、いくつかの他の見せかけ  「ゴールド・クラッシクス」、「マスターピース・コレクション」、「プレミアム」など  のもとでも発売されることになった。

 「古典的ディズニー」という用語の周囲に発達した最も一般的な連想は、ひょっとしたら、おとぎ話のナラティブ〔物語〕の利用、そして盗用に関わっているかもしれない。モーリーン・ファーニスが述べている通り、「ディズニー・スタジオの多くの長編映画は(…)民話(おとぎ話とも呼ばれる)、寓話、神話、伝説といった、よく知られた物語に依拠していた」(2007, 114)。ディズニーの長編アニメーション映画に感じられる同質性とおとぎ話のナラティブの普遍性を考え合わせるなら、このことに驚くべき点はほとんどない(ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』[1928年]、ジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』[1949年]を参照)。加えて、ディズニー・スタジオのアニメーション作品をしばしば支配する代わり映えのしない孤児たち(人間の場合もあれば動物の場合もある)は、キャンベルが「モノミス〔神話の原型〕の中核をなす単位」と呼んだものの条件を満たしている。このモノミスでは、主人公(hero)は「日常の世界から飛び出して、超自然的な不思議が支配する領域に乗り出してゆき、そこで並外れた力と出会い、決定的な勝利を得る、そして主人公は[新たに獲得された]力をもってこの冒険から帰還するのである」(1993, 30)。表面的な水準で言えば、この「成熟」のナラティブは、ほとんどのディズニー作品のうちに見いだされうる。

 ジャック・ザイプスにとって、ディズニー・スタジオによるおとぎ話の利用に関して最も危惧されるのは、ディズニーの署名によって、シャルル・ペロー、グリム兄弟、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、カルロ・コッローディなどの名前が霞んでしまうことである。「『白雪姫』であれ、『眠れる森の美女』[1959年]であれ、『シンデレラ』[1950年]であれ、今日、子どもたちや大人たちが偉大なおとぎ話の古典について考えるなら、彼らはウォルト・ディズニーのことを思うだろう。これらやそれ以外のおとぎ話に彼らが抱く最初の、またひょっとしたらその後も持続する印象は、ディズニーの映画や本やグッズ(artifact)に由来するものだろう」(1996, 21)。しかしながら、おとぎ話のナラティブの盗用にディズニーが成功し、ディズニー・スタジオのアニメーション作品におとぎ話の図像が繰り返し現れるとしても、それがすべてのディズニー長編アニメーションに当てはまると断言するのは正しくない。『ダンボ』や『バンビ』や『メイク・マイン・ミュージック』(1946年)のような映画作品が存在する以上、ディズニー・アニメーションにおけるおとぎ話の支配を同定するひとつのやり方として、「古典的ディズニー」という用語を用いることには問題がある。

 近年、「古典的ディズニー」という用語の複雑さについて、多くの批判的研究のなかで議論されてきた。マーク・フィリップスは、ディズニーの受容を研究するなかで、ある種の観客が「古典的ディズニー」と「現在のディズニー」を積極的に区別していることを観察している(2001, 48)。この区別は、ディズニー・スタジオが、かつての主に娯楽アニメーションを製作する会社から今日のグローバルに多様化したビジネスに移行したことに基づいている。ジャネット・ワスコは、『ディズニーを理解する』(2001年)と題された研究のなかで、「古典的ディズニー」を決定づけるのに役立つ多くの構成要素を提出している。

「古典的ディズニー」と呼ばれるものを定義することは(…)可能である。この言葉によって言及されているのは、ディズニー社のアニメーション映画、カートゥーン、いくつかの実写映画、そしてこれらの製品に登場する一群のキャラクターであり、さらには一般的に言って、世間一般と批判的分析にとって「ディズニー」の代名詞となっている主題と価値の一貫したまとまりである。(2001, 110)

最も包括的な研究を提供しようと試みながらも、ワスコは依然として次のことを認めている。「例外とバリエーションが存在する。というのも、すべての特徴があらゆる製品やテクストに含まれるわけではないからである」(2001, 113)。

  

『白雪姫』〔1937年〕とディズニー・フォーマリズムの基礎

 『蒸気船ウィリー』〔1928年〕の公開によってみずからの登場を告げた直後、ディズニーは経済不況の困難な諸条件に対処しなければならなかった。アメリカ合衆国において、大恐慌は1929年から1941年までおよそ12年間続いた。トーマス・エマーソン・ホールとJ・デヴィッド・ファーガソンによれば、大恐慌の最悪期は

最初の三年半だった。その時期には、経済的繁栄を測るほぼすべての指標が大惨事を映し出していた。経済生産高の水準低下は広範な人間的苦境をもたらした。その厳しさは、失業率の上昇、貧困の増大、会社と個人の双方における負債による破産の高い割合によって測られる。(1998, 1)

だがディズニーの現実逃避的で上昇志向なカートゥーン〔漫画映画〕は、スタジオが収益をもたらすビジネスに発展するのを助けた。「ユニバーサル、コロンビア、RKO〔いずれもハリウッドのメジャー映画スタジオ〕のような大企業ではなかったけれども、ディズニーの独立した操業は、1930年代初頭までに明らかにビッグ・ビジネスの領域に達していた」(1997, 66)と、スティーブン・ワッツは書いている。財務上の観点からみれば、「個々の[カートゥーン]はおよそ5万ドルの製作費がかかったが、いずれも公開後の最初の二年間に配給費用を差し引いて、およそ12万ドルの収益が期待できた」(Watts, 1997, 66)。

 そのような数字にもかかわらず、ディズニーが手に入れたお金の大半は、スタジオのアニメーションのクオリティを向上させるための継続的な努力にただちに再投資された。それがスタジオに多くの賞をもたらしたのである。しかしながら、このことは、新しいカートゥーンの製作が財政的な綱渡りになることも意味していた。これはその当時のアニメーション・スタジオにとって、慣例的な実践ではなかった。すべてのスタジオが経済的な綱渡りを選択したわけではなかったのである。マックス・フライシャー〔フライシャー・スタジオの創設者〕の息子であるリチャード・フライシャーは次のように述べている。

マックスがそれについて多くを語ることは決してなかったけれども、ディズニーがそのカートゥーンの美しさと優美なアニメーションのおかげで次から次へと賞を獲得していることは、父の心を苦しめていた。ディズニーのカートゥーンの持つ受賞に値するクオリティゆえに、それらのカートゥーンは費用がかかり過ぎており、ディズニー社がしばしば破産寸前に追い込まれていたことは、業界で広く知られていた。私はあるとき、たくさんの賞を獲るディズニーの能力を羨んだことがあるか父に尋ねてみた。父の答えは率直で示唆に富んでいた。「このことをよく覚えておけ」と父は言った。「受賞メダルは食えないんだ」。(2005, 73-74)

フライシャー・スタジオが経済の沈滞期に保守的な進展で満足していたのに対して、ディズニーはスタジオの収益性に勇気づけられて長編映画『白雪姫』を製作し、短篇カートゥーンを乗り越えようとした。

 『白雪姫』の成功はディズニー・スタジオを大きく変えた。この作品はアニメーション製作としては前例のない費用  「およそ150万ドル、これは1937年のスタジオの総収益をわずかに下回る額である」(Barrier 2008, 130)  を発生させたが、ディズニーにはるかに大きな利益を得ることを可能にした。『白雪姫』公開年の「収入は156.5万ドルであり、そこにはフィルム貸出による収入118.7万ドルが含まれている。1938年には、最初の9ヶ月だけで総収入は(…)434.6万ドルに達した」(Barrier 2008, 131)。収入の劇的な増加の一部は、スタジオが販売する関連グッズの拡大のおかげである。前章で述べたとおり、関連グッズには「衣料品、食品、玩具、書籍、写真、レコード、楽譜が含まれる(Wasko 2001, 14)。最終的に、『白雪姫』の財務的および批評的な成功と、それと対をなす『ファンタジア』(1940年)の相対的な失敗によって、『白雪姫』がディズニー・フォーマリズム時代の多くの作品にとって、美学上の青写真になったのである。『白雪姫』によって推進された芸術的パラダイムは、その後、「ハイパーリアリズム」として知られることになった。

 ハイパーリアリズムという用語は、アニメーションに固有のものではない。だが、ディズニー  より正確に言えばディズニーランド  は、ウンベルト・エーコやジャン・ボードリヤールといった理論家に対して、この概念に取り組む手段を提供している。エーコもボードリールも、ディズニーランドを具体例として使いつつ、20世紀の文化生産の問題を議論するために、この用語を用いている。

エーコにとって、ディズニーランドは、新たに姿を現しつつあるポストモダン文化と彼がみなすものの、究極的な具体例である。それは「フェイク」によって特徴づけられる(他の事例には蝋人形博物館とアニマトロニクスの展示がある)。他方、ボーリヤールにとって、みずからの見世物の「ハイパーリアリティ」を強調するテーマパークの楽しみは、現実世界がいまや全体としてハイパーリアルであるという事実から私たちの注意を逸らす役割を果たしている。「フェイク」すべき現実など残されていないのである。(Dovey et al. 2009, 138)

エーコとボーリヤールはともにポストモダニズムに特徴的な仕方でなされる「現実」(reality)の構築を問題にしているのだが、アニメーション研究の内部では、「ハイパーリアリズム」という言葉は、それとは異なるより特殊な意味を獲得してきた。

 アニメーション理論家のポール・ウェルズの著作における用法が示すとおり、ハイパーリアリズムは、媒体に備わる明白な作為性(artifice)にもかかわらず「リアリズム」を追求するアニメーションのモードを定義するようになった。人工性(artificiality)に立脚する媒体を用いて現実を再現しようと試みること。ハイパーリアリズムをとりわけ適切な用語にするのは、この逆説である。(先述したように)ディズニー・フォーマリズムの時代を通して慣例化されたディズニー・スタジオのハイパーリアリズムは、「他の種類のアニメーションをその「リアリズム」の相対的な度合いによって測る尺度」(Wells 1998, 25)とみなされることが多い。この「現実主義的」スタイルは、しばしば、ディズニー・スタジオの作品全体を表しているとみなされるが、そのような見方は、このスタジオの作品群のかなりの部分を正確に提示していない。ディズニーの初期アニメーションの多くはリアリズムの慣習に対する抵抗を示している。『フィリックス・ザ・キャット』(1920〜1928年)、『インク壺から(Out of Inkwell)』(1919〜1929年)、『オスワルド・ザ・ラッキー・ラビット』(1927〜28年)といった同時代の短篇作品と同様に、『ミッキー・マウス』(1928〜1929年)と『シリー・シンフォニー』は、誇張された潰しと伸ばしの力学(squash and stretch physics)やカートゥーン的なメタモルフォーゼを特徴としていた。しかし、ディズニー・フォーマリズムの長編アニメーションに移行すると、リアリズムの追求がただちに最優先の関心事となった。

 この〔リアリズムへの〕欲望は、1936年に開催された『白雪姫』の制作会議にはっきり見てとれる。先頭に立ってアニメーターが直面している数多くの懸念を持ち出したハミルトン・ラスクは、白雪姫の眼はどのように描かれるべきかという問題を提起した。アニメーションの形式のなかでリアリズムと折り合いをつける必要性を意識しながら、ラスクは次のように述べている。「私たちはこの少女の眼を丸く描く。できるだけ丸くするんだ。しかし、ある種の漫画みたいに眼を大きくしすぎると、ベティ・ブープ風になってしまう」(William 1987b)。さらに、信じられること〔もっともらしさや説得力〕(believability)の強調は、白雪姫の口をどのように描くのが一番良いのかという問いに、会議に出席したアニメーターたちを向き合わせた。ここでもラスクが議論を主導し、白雪姫の口が正しくアニメートされていないと、観客は「口の形がはっきりしない」と批判するかもしれないと主張した。そしてラスクは次のように結論した。「私たちは口を描くときに歯を入れねばならないし、他にも色々なことをしなければならないが、それでも現実的に(realistic)見せねばならない」(William 1987b)。

 ディズニー・フォーマリズムのハイパーリアリズムにおける最も重要な要素は、アニメーションの生き写しのような(lifelike)動き、あるいは運動機能(motor function)である。これは実写モデルの実際の動きとアニメーターの技術の双方を反映している。ひとつの描画から次の描画へ移行するさいに、より研究された多様な潰しと伸ばしの動きを採用することによって、生き写しのような動きはただちに「アニメーションの本質そのもの」になった(Thomas and Johnson 1995, 48)。フランク・トーマスとオーリー・ジョンソンが述べているように、潰しと伸ばしはアニメーションのすべての側面に影響を与えるポテンシャルを持っていた。「微笑みはもはや顔を横断して伸びる単純な線ではなかった。それはいまや唇と、唇と頬との関係を定義した。足はもはや(…)ラバーホース〔ゴムホース〕ではなかった。それは曲がるときにはふくらみ、長くしなやかな形に伸びたのだ」(1995, 48)。

 ディズニー・アニメーションの場合、「実写撮影された人間と動物のアクションも様々な仕方で用いられており、(…)いくつかの重要な発見をもたらした」(Thomas and Johnson 1995, 319)。ディズニー・スタジオによるディズニー・フォーマリズムの初期長編作品において、スタジオのアニメーターたちは、ロトプコープ〔実写撮影された映像を一コマごとにトレースしてアニメーションを制作する手法〕の戦略  フライシャー・スタジオが『ベティ・ブープ』シリーズ(1932〜1939年)や長編『ガリバー旅行記』(1939年)で用いた方法  に単純に従うのではなく、実写のアクションをただ〔作画の〕手引きとしてのみ利用した。ディズニー自身、フレーム〔コマ〕ごとに見ると、撮影されたアクションがどれほど有益であったかについて、次のように語った。「私はいつでも、決して想像しなかったような事柄をそこに見たものだった」(William 1987a)。スタジオが好んだリアリズムとは対照的に、厳密にロトプコープされたアニメーションは「生命の幻影」を失いがちであった。というのも、トーマスとジョンソンが論じているように、ロトスコープによってもたらされる動きの正確さにもかかわらず、「(…)影のような生き物とは感情的に関わり合うことができなかったからである。それらの生き物は私たちの空想世界の本当の住人では決してなかったのである」(1995, 323)。しかしこの見方は、トーマスとジョンソンのヒュペリオン版〔『ディズニー・アニメーション 生命を吹き込む魔法』〕の付託を反映しているかもしれない。すなわち彼らは、ディズニー・アニメーションは芸術であり、そこではロトスコープに頼らないスタジオの作業が「芸術家の個人的ステートメントを後押しするのだ」(1995, 323)と主張しようとしているのである。ディズニー・スタジオが採用したテイラー主義的な製作方法を考慮するなら、これは逆説的な主張である。しかし、この主張にもいくらかの根拠はある。ポール・ワードもまた、完全にロトスコープされた「アニメーションは、しばしば奇妙で、不気味で、場違いに見える」(2006, 233)と論じている。このスタイルは、ハイパーリアリズムとの関係においては、非生産的だったろう。したがって、ディズニーのアニメーターたちの主要な強みは、「フォトスタット〔実写映像のコマを動画用紙と同じサイズにプリントして束ねたもの〕をリファレンス〔参考〕としてのみ用いる」という決断にあったといえる。そのようにフォトスタットを活用した後では、「アニメーションがそれ以前にはなかったようなきびきびした動き、力強さ、そして豊かさを獲得した」(Thomas and Johnson 1995, 323)のである。

 だが、ディズニー・フォーマリズムのハイパーリアリズムの進化を一直線に進む進歩だと考えるべきではない。それはむしろ競合するアプローチの総体あるいは調停の産物である。白雪姫のキャラクターを発展させるさいにディズニーが強調したそうしたアプローチのひとつは、「かわいらしさ」(cuteness)だった。スタジオの「黄金時代」にディズニーのアニメーターだったザック・シュワルツは「「かわいい」(cute)という言葉には本当に参りました。スタジオ中でその言葉が飛び交っていたのです」(Frayling et al. 1997, 5)と述べている。そうしたかわいらしさの強調には、伝統的な平面アニメーションを用いて完全にリアリスティックな人間の登場人物を描くことは不可能だという気づきが反映していたのかもしれない。平面アニメーションの媒体は絶えず、そして避けがたく、作為性を前景化してしまうのである。ウェルズは次のように述べる。

「身体」の構築は、最も決然としてハイパーリアリズム的なアニメーション(とりわディズニーのそれ)においてさえも、複雑な問題である。なぜなら、アニメーションには、「リアリズム」と物理世界の慣行に抵抗する能力が備わっているからだ。アニメーションは、身体を流動的で破壊し得ない形態として再定義する。収縮、分解、再構成を繰り返し、あり得ないような環境に順応して、アニメーターの意のままに形を変えるのである。(1996, 185)

シュワルツは、伝統的な平面アニメーションを用いて「リアリスティックな」図像を描こうとすることに固有の逆説を認め、次のようにコメントしている。「一方において、ディズニーは何かに演技をさせるためには誇張して描かなければならないという事実を大いに評価していた。しかし他方では、リアリティの追求もまた、つねにそこにあったのである」(Frayling et al. 1997, 6)。最終的には、絶対的なリアリズムではなく、信じられること〔もっともらしさや説得力〕が、この時期のディズニーのアニメーションを下支えする駆動原理となった。

 『白雪姫』の公開によってメジャーな発表の場を獲得したこうしたスタイルの特殊性は、周囲のアニメーション産業に広範な影響を及ぼした。当時、ディズニー・スタジオの強力なライバルだったフライシャー・スタジオは、「よりディズニー的なドローイングにシフトしただけでなく、よりディズニー的な製作手法に舵を切った」(Barrier 2008, 294)。バリアーは『ガリバー旅行記』の一場面に言及しながらこの変化を論じている。「リリパット王国のキング・リトルとレフスキュ王国のキング・ボンボが仲たがいする場面は、『白雪姫』で登場した種類のアニメーションに合わせて作られていた。王たちに生命を付与し、彼らの争いをリアルなものにした。その結果、その言い争いのきっかけはすぐに重要でなくなってしまうのだ」(2008, 295 強調引用者)。ディズニー・スタジオの外部で作られたこうしたアニメーションにとって、最初から着想の源はディズニーのハイパーリアリズムだった。他のスタジオも自分たちのアニメーションにおいて同等の本当らしさを求めたのである。

 キャラクターのリアリスティックな動きを強調することに加えて、個々のフレーム〔コマ画像〕に備わる視覚的リアリズムを最大化するために、セルの一枚一枚に対しても作画後の修正が施された。ディズニーのアニメーション制作のヒエラルキーでは、男性が上位の地位を占めていたのに対して  この状態は標準的な求人で「男たち(men)を捜した」ディズニーによって維持された(Eliot 2003, 69)  、トレス〔inking インクで原画・動画の輪郭線をセルに書き写すこと〕と彩色〔painting セル画に色をのせること〕の部門には、多くの女性スタッフがいた。マーク・エリオットは「トレス・彩色部門の仕事は色を塗る技術があれば事足りた」(Eliot 2003, 29)と主張しているが、スタジオのこの部署で働いていた女性たち(と男性たち)は、完成状態のセルを見ることができるという特権を有していた。『白雪姫』の完成されたセルを検査したとき、「女性たちの幾人かは黒色の髪が不自然で目障りだと感じ、やや明るい灰色のドライブラシをほんの少し足すことで、白雪姫の髪の輪郭を柔らかくしたのだった」(Thomas and Johnson 1995, 277 強調引用者)。さらに同時代のキャラクターであるジェニー・レン〔1935年公開の短編映画『誰がクック・ロビンを殺したの?』に登場する小鳥のキャラクター〕の頬がピンク色のインクで丸く塗られており、結果的に道化的な外見を呈していたのに対して、白雪姫の場合には、水墨画の手法で個々のセルに慎重に擦りつけられたルージュの繊細な色調のおかげで、より自然な外見が実現されている(Thomas and Johnson 1995, 276 強調引用者)。「キャラクター、文脈、ナラティブ(…)の本当らしさ」(Wells 1998, 23)へのディズニーのこだわりに忠実に、トレス・彩色部門で働く女性たちをも含めたアニメーション制作のヒエラルキーのすべての水準で、自然主義的なイメージの実現が、必要とされるあらゆる手段を用いて追求されたのである。トレスと彩色を担当したスタッフは、そうすることで若い主人公〔白雪姫〕に前代未聞の女性らしさを付与したのだった。

 最後に、『白雪姫』におけるディズニーのリアリズムの強調の結果、カートゥーン的なメタモルフォーゼは、女王の魔女への変身を除いて、ほぼ姿を消す。ウェルズはカートゥーン的メタモルフォーゼを、「線の進展」を通して「まったく異なる別のイメージに文字通りに変化する」(1998, 69)イメージの能力と定義している。ソヴィエトの映画作家であり理論家でもあったセルゲイ・エイゼンシュテインをディズニー・スタジオ作品の思いがけぬファンに変えたのは、まさしくこの特徴だった。エイゼンシュテインにとって、ディズニーの初期作品に登場するキャラクターたちは、「しばしば音符に合わせて踊りながら、楽器に形態変化したのだった。ピアノロール〔自動ピアノ用の紙ロール〕になるタオルやバイオリンに変身する尻尾」(Canemaker 1994)は、「原形質的」啓示だった。「原形質性」という言葉によってエイゼンシュテインが言及したのは、「ひとたび割り当てられたら永久に変わらないような形態の拒否、固定化からの自由、そして劇的にどんな形態にもなり得る能力」(1986, 5)だった。エイゼンシュテインの主張によれば、こうしたアニメーションのスタイルは「いまだ「安定した」形態を持たない原形質」のように振る舞うのであり、「進化の階梯の梯子を飛び移る能力」(1986, 5)を有している。「容赦なく規格化され、機械的に測られる存在〔アメリカの観客〕にとって、(…)そうした「全能性」(すなわち「なりたいものに何でもなれる」能力)を目撃することは、鋭く際立った魅力を持たずにはいない」(1986, 5)。だが皮肉にも、ディズニー・フォーマリズムの時代に開発され、ディズニー・スタジオの作品全体を表すにいたったハイパーリアリズム・スタイルのアニメーションは、規格化され機械的に測られていたのであり、リアリズムの追求のために、初期短編や作品集のいくつかに見られた「原形質性」を犠牲にしたのだった。

  

『ピノキオ』〔1940年〕

 『ピノキオ』でディズニーは、ディズニー・スタジオのアニメーションの洗練をさらに推し進めようと尽力した。マルティンによれば、財政の逼迫にもかかわらず、「ディズニーはクオリティで妥協することを拒否した。ディズニーは『白雪姫』の製作中に学んだ教訓のすべてを断固として『ピノキオ』のなかに組み入れようとしたのである」(1987, 58)。こうした完璧性を求める衝動は、ジミー・クリケットの細部の仕上げに反映している。上級アニメーターだったフランク・トーマスは、ジミー・クリケットというキャラクターに27色の異なる色彩が用いられたことを明かしている。「ジミー・クリケットの27のパーツを塗り分けるなんて考えられない。ましてやそれぞれを違う色で塗るなんて…。しかしウォルトはそれをリアルに見せたかったんだ」(Watts 1997, 106)。

 アニメーションのセルの制作において、アニメーションのリアリズムを強化すべくディズニー・スタジオが採用した戦略については、すでに論じた。だが、撮影前になされる複数のセルの配置によって、同様の結果〔リアリズム〕がいかに実現されたかについても検討する必要がある。当然のことながら、私たちはここでディズニー・スタジオによるマルチプレーン・カメラの使用に言及することになる。マルチプレーン・カメラは、複数のセルをそれぞれレンズから異なる距離に固定することで、被写界深度(depth of field)をシミュレートすることができた。被写界深度とは、本質的に言うと、被写体が鮮明なフォーカスのもとで撮影され得るレンズからの距離の範囲を指している(Bordwell and Thompson 2001, 202)。だが、すべての平面に一度にフォーカスが合うことはないので、カメラはレイヤーの間を移行してフォーカスを変える自由を持つ。このアニメーションの方法は、実写における奥行きの深い空間(deep space)の概念により近い。奥行きの深い空間において、実写映画の監督は、すべての平面〔前景、中景、後景〕にフォーカスが合っているか否かにかかわらず、アクションを複数の平面に配置する(Bordwell and Thompson 2001, 202)。

 次に『ピノキオ』からひとつのシークエンスを取り上げてみたい。カメラがフォーカスを変化させるこのシークエンス(図3.1〜図3.7)は、同時に撮影されたアニメーションの多数の平面が、どのようにして合成映像〔背景と多数のセルの重ね合わせから成る映像〕の内部に奥行きの感覚を確立するのかを明示している。

 図3.1から始めよう。私たちはアニメーションを構成する4つの平面を同定することができる。すなわち、背景(A)、中景(B)、前景(C)、そして白い鳩たちが描かれたオーバーレイ〔レイヤー〕(D)である。図3.1と図3.2のあいだに生起する横方向の移動は奥行きの確立にほとんど寄与しないが、鐘の音と同時に飛び立つ鳩たちは、視点が俯瞰ショットに移行する際に観客の注目の焦点として作用する。カメラが山麓の村に向かって前進(ズームイン)し始めると(図3.3)、鳩たちを含むアニメーションの平面はピンボケになる。画面の中心が再定位されるが、最初の4つの平面は依然として用いられている。だがこのとき、カメラは複数の平面を「横断して」動き始め、本来は遠くにあった背景(A)と中景(B)を鮮明に写し出すようになる。最初の前景(A)がフレームアウトすると、さらなるアニメーションの平面(E)がその背後に見えてくる(図3.3)。村の広場が姿を現すと(図3.4、図3.5)、たくさんのアニメートされた人物が場面を横切る。それに伴って、カメラは横向きの動きに方向を変える。このカメラの動きは図3.3の鳩たちに合わせた動きと同様である。新しく現れた平面(E)を中心にしたカメラは、今度はフォーカスを再調整し始め、さらに深く村に入り込み、ピノキオの家の前で動きを止める(図3.6)。この時点でカットが入り、より慣習的なアニメーションのシークエンスに移行する(図3.7)。

図3.1
図3.2
図3.3
図3.4
図3.5
図3.6
図3.7

 かつてディズニーは、「『ピノキオ』には、『白雪姫』のような心に訴えかける力が欠けているかもしれないが、技術的、芸術的には、『ピノキオ』のほうが優れている」と述べたことがある(Maltin 1987, 58)。この評価の主要な根拠は、『ピノキオ』の込み入った細部の仕上げと作品内でのマルチプレーン・カメラの絶妙な使用法にあった。上述の一分に満たないシークエンスを制作するのに、ディズニーはおよそ4万5千ドルを費やした(Solomon 1994, 59)。だが、『ピノキオ』に明瞭に見てとれるハイパーリアリズムの継続的な発展は、『ダンボ』の制作を通して単純明快な仕方では進行しなかった。

  

『ダンボ』〔1941年〕

 空を飛ぶ象のダンボは、ディズニー・フォーマリズム的なハイパーリアリズムの矛盾を最も明瞭に体現しているとみなせるかもしれない。しかし、ダンボのアニメートされた運動  空を飛んでいる部分は除く  は、生きた動物の運動機能についての注意深い研究を明らかに示している。興味深いことに、そうした細部の研究を奨励するために、「ディズニーはスタジオのなかに小さな動物園を作り、アーティスト〔アニメーター〕が自然に倣ってドローイングできるようにしたのだった」(Schickel 1997, 180)。だが、動物たちが本物の(real)動物のように動くことが求められた一方で、(…)その動きの複雑さが(…)目を引かないことも重要だった。この条件を満たしたのは、生き物を描くアーティストの技術の巧みさであった」(Wells 1998, 23)。

 記憶に残る「ピンク・エレファント〔桃色の象〕のパレード」のシークエンスは、ディズニー・フォーマリズムの確立された慣例から逸脱しており、容易には調停しがたいように思える。ダンボがお酒を飲んでしまうことが、唐突な超現実性への移行(surreal transition)を正当化する因果論的枠組みの仕掛けとして機能しているとはいえ、このシークエンスで採用された美学は、ディズニー・フォーマリズム時代の作品はもちろん、ディズニー長編アニメーション映画全体のなかでも極めて稀な事例である。このシークエンスが私たちに提示するのは、アニメーションという形式の根本的な存在理由である。すなわち、純粋な実写映像には不可能なものを構想し提示する能力であり、それを制限するものは、アニメーターの技術と想像力だけなのである。さらにそれは、初期の短編作品の原形質的なメタモルフォーゼ、および誇張された潰しと伸ばしの力学を示している。

 「ピンク・エレファント」の幕間劇の半ばで、複数の象の頭から構成された二足歩行のキャラクターがカメラに向かって行進してくる。そしてカメラに接近すると、その二つの眼がピラミッドに変化する。さらにこの二つのピラミッドの間から、ラクダとゾウの交配種(あるいは「キャメレファント Camelephant」)が姿を現す。その奇想天外な血統に加えて、このキャラクターは際立った潰しと伸ばしの力学をも提示する。「キャメレファント」が蛇遣いに変身するピラミッドを通り過ぎると、蛇遣いが演奏する音楽によって「キャメレファント」は蛇にメタモルフォーゼする。蛇はさらに人間に近い外見をしたゾウ女に形を変える。この女性がヴェールを被ったダンスを披露するうちに、彼女の体は単純な球形へと退行する。これは初期の「ラバーホース・アニメーション」の円環的原理への視覚的目配せである。「ピンク・エレファント」の幕間劇で一貫して生起する絶えざる形態変化は、このシークエンスにはっきりとシュルレアリスム的な性質を付与している。この表現は、ディズニー・フォーマリズムの慣例的なハイパーリアリズムの美学に対して著しい対照をなしている。

 マーク・ランガーは『ダンボ』における異質な要素の共存という特質を説明するひとつの方法として地域性を指摘している。ランガーはこの作品の外観に影響を与えたアニメーションの二つの流派  それらはアメリカ合衆国の東海岸と西海岸に位置づけられる  を同定する。すなわち、「ニューヨーク・スタイル」(NYS)と「西海岸(West Coast)スタイル」(WCS)である。「ピンク・エレファント」のシークエンスが体現するのはNYSであるが、それは「主にカートゥーンのスタイルであり、キャラクターの人工性と描かれた絵にすぎないという性質を、デザイン、動き、そして台詞が強調した」(Langer 1990, 308)。こうした特質は、「ラバーアニメーション」〔ラバーホース・アニメーション〕を利用することで達成された。すなわち、「生きているものも生命のない物体も、まるでゴムで出来ているかのように、弾力性のある柔軟さで動くのである。物体は変形可能性とメタモルフォーゼを強調し、他の事物の機能や性質を帯びる」(Langer 1990, 308)。ランガーによれば、それとは対照的にWCSは、古典映画のナラティブとスタイルのコードを模倣することを第一として、多くの戦略を組み入れる」(1990, 306)。加えて、ランガーの定義するWCSは、首尾一貫したスクリーン上の個性(personalities)を作り出し、「生き写しの動き」再現する(1990, 306)。ランガーの言うWCSはハイパーリアリズムの諸原理に関係するものの、その定義はより広い範囲をカバーしている。すなわち、短編アニメーションやディズニー・スタジオ以外のアニメーションをも含むのである。

 これらの対照的なスタイルの要点を述べたうえで、ランガーは、ダンボの苦境をNYS原理とWCS原理の抗争として解釈し直している。ランガーによれば、NYSに基づく「ピンク・エレファント」〔のシークエンス〕は、WCSに立脚する作品の主要部分でダンボが直面する問題に対して、メタモルフォーゼによる解決を提示するものである。ランガーは結論において、この作品の製作・公開当時に作品と平行して起こっていた、二つのスタイルのあいだの映画作品外での抗争を強調している。「「ピンク・エレファント」によって提示されたニューヨークの解決策は、西海岸的なエンディングによって標準化〔規格化〕された。(…)『ダンボ』の結末は、ディズニーにお馴染のものである家族と繁栄の回復を祝福するだけではない。(…)それは西海岸スタイルの勝利をも祝福しているのだ」(1990, 318)。じっさい、同様に産業的な水準においてこそ、「ピンク・エレファント」のシークエンスは最もよく理解できる。

 ランガーは、「ピンク・エレファント」のシークエンスに主要な責任を持つ3人のアニメーター  ディック・ヒューマー、ジョー・グラント、ノーマン・ファーガソン  を同定している。彼らは三人ともニューヨークでキャリアを開始した。明らかにランガーは、『ダンボ』にNYSが現れたのは、この三人が関わったからであるとほのめかしている。ランガーの主張によれば、ヒューマーとグラントが「物語を書き換えた」ことで、ファーガソンによる「重要な「ピンク・エレファント」のシークエンス」が可能になったのである(1990, 310)。しかしながら、ランガーは、ファーガソンがそれ以前にディズニー・スタジオで果たした役割にまったく言及していない。ファーガソンは、「『白雪姫』の作画監督として多くの場面の作画を監督しただけでなく、みずからも邪悪な魔女  ディズニーの大きな悪役の最初のもの  を描いた」(Watts 19997, 132)。加えてディズニーは、自分のスタッフの他のアニメーターたちに対してよりも大きな芸術的自由を、ファーガソンには認めていたのかもしれない。というのも、ヒューマーの言葉によれば、「ファーギー〔ファーガソン〕(…)に勝る者はいなかった。ディズニーで最も優れており、それゆえ世界一だった」(Watts 1997, 132)からである。だが『バンビ』が証言するとおり、『ダンボ』で展開された美的混交性は短命に終わった。

  

『バンビ』〔1942年〕

 『バンビ』は、ディズニー・スタジオによるディズニー・フォーマリズム・アニメーションが到達したハイパーリアリズムの頂点を表象している。この作品は先行する長編アニメーションに多くの仕方で依拠している。それが既存の実践を発展させたものであることは、作品冒頭のマルチプレーン・カメラのシークエンスにただちに見てとれる。1分32秒の長さがあるこのシークエンスは、すでに議論した『ピノキオ』のマルチプレーン・シークエンスよりも52秒長い。さらに『バンビ』のマルチプレーン・シークエンスは、2分36秒〜2分47秒にあるダイナミックな移動速度の変化を特色としている。このマルチプレーン・シークエンスが、ディズニー・フォーマリズム・アニメーションの機械的側面に関するスタジオの完璧さを確証している一方で、『バンビ』のポスト・プロダクションにおける特殊効果の作業もまた、明らかに同等の洗練を示している。

 『バンビ』の「四月の雨」(Little April Showers)のシークエンスは、ディズニー・アニメーションの全作品のなかでも最もふんだんに視覚効果が用いられているシークエンスのひとつである。そこでは春の土砂降り雨の様子が視覚的に際立った仕方で描写されている。ディズニー・スタジオの視覚効果担当のアニメーターたちがこれをどうやって成し遂げたのかを、アブ・アイワークスは次のように説明している。「まず夜間に、落下する水をスポットライトで照射しながら撮影した。次に撮影したフィルムをカメラにかけ直し、拡大プリントを作成する。そこに作画された雨が加えられ、水しぶきが強調されたのである。この効果はペンとインクによる雨よりも迫真性があるが、アニメーションの特質も保持している」(Iwerks and Kenworthy 2001, 155-6)。さらに浅い水面の透き通った性質を保つために、シークエンス末尾にある水の波紋は、「輪郭線をインクで描くことなくラッカーでセルに塗られたのだった」(Thomas and Johnson1995, 262)。『バンビ』に視覚的な説得力(believability)を付与するにあたって欠かせなかった芸術的な機転は、アニメーターたちによるこの作品の動物描写にも反映している。

 動物たちをできるだけリアリスティックに見せたいというディズニーの願望にもかかわらず、それを達成するのはスムーズな過程ではなかった。「威厳ある森の王様〔バンビの父親〕と成年のバンビの角は特別な困難をもたらした」とソロモンは述べている。「どのアーティストも、それらの角を正しい遠近法に保ちつつ、立体感を維持することができなかった」(1994, 128)。加えて、鉛筆画によるテストでは、角がゴムのようにぐにゃりと変形し、ぐらつくように見えた(Solomon 1994, 128)。トーマスとジョンソンが明らかにしているように、解決策は「石膏模型をトレースすることによってもたらされた。この石膏模型はアニメーターのドローイングに合わせて向きを変えることができたのである」(1995, 339)。

  『バンビ』の製作中、ディズニーは本物の鹿を「敷地内に手配し、アニメーターのためのモデルとした」(Finch 1995b, 209)。アニメーターが本物の(real)鹿を間近に観察して作業できたことと、ディズニーがリアリズムと説得力(believability)のバランスを強調したことの結果として、『バンビ』における眼のアニメーションは、新たな洗練の水準に到達した。トーマスとジョンソンは次のように書いている。

ミッキーや小人たちと較べて、バンビの眼はとてもリアリスティック〔写実的〕にみえる。それはカートゥーンの眼ではなく、本物の(real)鹿の眼の特徴を強調したもの(caricatures)である。そこには涙腺が示唆されているし、注意深く描かれた上まぶたは眼球にかぶさるだけの厚みを備えている。暗色の中心と明るい部分を持つ瞳孔は、〔バンビの〕眼を、これまで描いたなかで最も細部に富むものにした。ほとんどの観客にとっては、本物の鹿の眼との違いを見分けるのはほぼ不可能だったろう。(1995, 448-9)

 『バンビ』における眼のアニメーション(図3.8)は明らかに詳細であるけれども、本物の鹿の眼と区別できないだろうというトーマスとジョンソンの断言は、いささか誇張しすぎである。

図3.8

 だが、ディズニーのアニメーターたちがスタジオ初期短篇のカートゥーンの原理からどれほど遠ざかったのかを十全に評価するには、『バンビ』製作前にリコ・ルブランが果たした貢献について詳しく述べる必要がある。動物について最もよく学び理解するには、動物と物体的に関わることことが重要だと、ルブランは信じていた。「とても若い  生後2日足らずの  子鹿の死骸」を手に入れたのち、ルブランは一連の夜間授業を行うことに決めた。彼の計画では、「夜ごとに動物の外側の層を少しずつ取り除くことで、最後には骨組みにいたる身体各部の仕組みを明らかにするつもりであった」(Thomas and Johnson 1995, 339)。トーマスとジョンソンは次のように回想している。

リコは皮膚を剥がした。そのおかげで私たちは、筋肉と腱とこの自然の驚異のもとで明らかになる注目すべき工学原理を精査することができた。ただ残念なことに、リコが死骸の一部を縮ませたり伸ばしたりするたびに、濃厚な臭いが空中に放たれるのだった。リコは私たちに呼びかけた。「おい、こっちに寄ってきて、これがどういう風に機能するのか見てごらんよ」。私たちは心込めて「いやここからでもよく見えるよ!」と答えたのだった。幅広い知識を得る珍しい機会であったにもかかわらず、この夜間授業の出席者は減り始めた。(1995, 339-41)

こうした様々な戦略の結果として、バンビ  と他の鹿  の動物生理学は、ミッキーマウス、ドナルドダック、そしてダンボといった、より初期のディズニーの動物たちのそれとは鮮やかな対照をなしている。

 ディズニーの意見では、『バンビ』はディズニー・フォーマリズムの野心の頂点を表していた。だが、他の人々にとっては、この作品は一時代の終わりを画するものだった。ディズニーの短篇作品に熱狂的に反応したエイゼンシュテインは、『バンビ』を「忘我への移行、真剣で永遠的なもの」とみなした(1986, 63)。エイゼンシュテインがほのめかしている『バンビ』の抒情性を、フィンチも指摘している。フィンチによれば、叙情性によって、『バンビ』は他のすべてのディズニー映画から」区別される(1995b, 207)。エイゼンシュテインはディズニー・アニメーションのこうした変化に公然と批判的なわけではなかった。だが、この映画とディズニーの進化についての難解な評価には、彼の失望を感じとることができる。

『バンビ』の主題は生命の循環である。生の繰り返される円環である。トーテミズムに差し向けられた20世紀の洗練された微笑みではもはやない。そうではなく、純粋なトーテミズムへの回帰であり、進化論上の先史への反転である。人間化された鹿、あるいは逆に、「再-鹿化した」人間。もちろん、『バンビ』はディズニーに関する研究全体の最後を飾る作品である。それとは別に、折衷主義による総合の実験である『ファンタジア』もある。
芸術の方法をその最も純粋な形で適用した最も純粋な事例。それがディズニーの偉大さである。(1986, 63)

エイゼンシュテインにとって、『バンビ』は  ディズニーの側における  アニメーションの原形質的可能性の決然たる拒否を印づけている。さらに、他の場合であれば相容れない芸術形式(「トッカータとフーガ ニ短調」による抽象的な導入部とベートーベンの「田園交響曲」に付き従う神話的な視覚表現を考慮せよ)を調停するアニメーションの能力  これもまたエイゼンシュテインにとって「ディズニーの偉大さ」である  を示す最も純粋な事例として、エイゼンシュテインが『ファンタジア』を同定したこともまた、『バンビ』の美学的正統に対する訓告とみなしうる。

 ハイパーリアリズム・アニメーションの限界を追求し、それに到達したことによって、ディズニーはアメリカのアニメーションにおいて最も目立つスタジオになった。そしてウェルズが書くとおり、「ディズニー作品に続くすべてのカートゥーン・アニメーションは、美学、技術、イデオロギーの点で、ディズニーに対する反応であると論じるのは正当である」(2002a, 45)。さらに言うなら、その意味において、戦後の大半の「アメリカのアニメーションは、事実上、1933年から1941年の間に起こったディズニーによるアニメーション形式の強奪に対する反応の歴史なのである」(Wells 2002a, 45)。

  

結論

 最終的に、そうした高度に精細な長編映画は予算的に実行不可能になった。ディズニー・フォーマリズムの頂点である『バンビ』は完成に6年を要したが、ディズニーが期待した収益をもたらさなかった。第二次世界大戦がディズニー作品のマーケットを著しく縮小させたことも、その一因だった。加えて、戦争遂行の最後の数年間に、ディズニーは空軍と海軍のために多くのプロパガンダ・アニメーションを作ることに同意した。この仕事は、困難な時代にディズニー・スタジオを破産から守る助けになったのだが、「ディズニーは自分の映画について判定をくださねばならない軍の将校や政府の役人と仕事をするのを楽しんではいなかった」(Barrier 2008, 185)。その後、ディズニ―は1940年代の残りの期間を、安定した財政的基盤を構築するのに費やした。この目標は、『ラテン・アメリカの旅』(1942年)、『三人の騎士』(1944)、『メイク・マイン・ミュージック』(1946年)、『ファン・アンド・ファンシー・フリー』(1947年)、『メロディ・タイム』(1948年)、『イカボードとトード氏』(1949年)といった「パッケージ」作品〔複数の小品を組み合わせた長編映画〕に大幅に依拠することで達成された。

 したがって、ディズニー・フォーマリズムの映画制作は、『白雪姫』、『ピノキオ』、『ダンボ』、『バンビ』という4作品によって、ディズニー初期の短い期間に確立されたのだった。だがそれ以来、多くの作品が、ディズニー・フォーマリズムの美学的伝統を頼りにしてきた。ディズニー・ルネサンスの長編作品や『プリンセスと魔法のキス』(2009年)もそこに含まれる。それらの映画はすべて本書の後の章で議論されることになる。さらに、『アメリカ物語』(1986年)、『アナスタシア』(1997年)、『魔法の剣 キャメロット』(1998年)、『リトルフットの大冒険 謎の恐竜大陸』(1988年)、“The Magic Riddle”(1991年)、『スワン・プリンセス 白鳥の湖』(1991年)といったディズニー・スタジオ製作ではない映画もまた、ディズニー・フォーマリズムの伝統の影響を明らかに示している。これらの作品を「古典的ディズニー」(Classic Disney)の映画制作の事例として論じることは混乱をもたらしかねないが、それらをハイパーリアリズムの拡張、あるいはディズニー・フォーマリズムの映画制作に対するオマージュとみなすならば、それぞれの作品の芸術的動機により焦点を絞って取り組む機会がもたらされる。それゆえ、ハイパーリアリズムやディズニー・フォーマリズムといった用語は、いまや多重決定されている「古典的ディズニー」という言い回しを用いる必要性を、取り除くとまでは言わないまでも、減少させる。じっさい、ディズニー・フォーマリズム時代の直後に作られた作品を解釈するさいには、より明確な仕方でディズニー・アニメーションの全作品を分析する必要性が、ただちに明らかになるのである。