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千の声、千の眼差しがひとつになるとき −ジャンダルメン・マルクトでの出来事−

私がべルリン・フンボルト大学での留学生活を終え、帰国してからすでに3年が過ぎた。刺激的な環境の中でひたすら好きなこと(研究)をしていれば、誰にも文句を言われず、生活費にも困らない、というDAAD奨学生の日々は、現在、大学で教える立場になった私にとっても途方もなく貴重な時間であった。

私の場合、文化学を学んでいたので留学時代の研究の現場は大学の授業や図書館だけではなかった。大学の外、いわばべルリンの街全体もまた研究のフィールドだったと言っていい。ここでは多くの印象的な出来事から一つだけをとりあげてみたい。

2001年9月11日、ニューヨークで同時テロ事件が起こったのは、ちょうど留学1年目が終わろうとしていたころであった。私はツインタワーが崩れ落ちるまでの光景をARDの特別番組で延々と眺めていた。この事件の後、周知のように、アメリカは急速にアフガニスタンへの報復攻撃に傾いていき、そこで生まれた「テロとの戦争」の流れは、2003年3月20日に始まったイラク戦争に繋がっていく。つまり、私の留学生活の後半は、戦争とそれに抗議する市民運動の盛り上がりの中で過ぎていったのである(2003年4月に帰国)。

「テロとの戦争」がこれまでの戦争とは異なり、近代的な戦争概念の変容を示していたように、それに抵抗する市民運動もまた、これまでとは異なる新たな性格を持っていた。それはこれまでのように政党や労働組合、教会組織によって組織されるのではなく、ATTACに代表されるような組織横断的で柔軟な集団に担われた運動であった。これまでは別々の組織に属し、異なる目的を持って個別に行動していたような人々が、緩い結びつきで連携して大きな社会運動を生み出していた。私はこのような新しい政治的行動のスタイルに関心があったので、大きなデモがあるときにはしばしばべルリンの街頭に赴いたのだった。

あれはタリバーンへの攻撃の直前だったので2001年10月だと思うが、そのようなデモのひとつの終着点となったべルリン中心部にある広場ジャンダルメン・マルクトに私はいた。そこではコンツェルトハウスの向かい側に演壇が設えられ、広場を埋め尽くす人々に向かって、さまざまな組織の代表者が演説を行っていたのだが、それはじつに興味深い光景であった。確かにアメリカの戦争の目論見が非難されるときにはほぼ全員の人が拍手するのだが、そこには集団的な暗示作用やオートマティズムは微塵もなかった。人々は演説の内容を冷静に吟味し、その主張が自分の立場と相容れない場合には、拍手せず、しかしだからといって、ことさらに野次ったりもせず、淡々と受け流していたのである。それはまさに独立した理性的な個人の連合であり、群集心理学が罵倒するような情動に支配された非合理な群集ではなかった。

ところが、PDS(民主社会党)の政治家が演説している途中で、ちょっとした騒ぎが持ち上がった。広場の真中あたりにいた数人の若者がさかんにフランス・ドームのほうを見上げて何か怒鳴っている。徐々に人々の注意が演壇から若者たちが指差すドームの方向に移っていく。私もドームを見上げてみると、バルコニーのところでなんと極右政党NPD(国家民主党)支持者の若者が反アメリカ的なスローガンの書かれた横断幕を広げようとしているではないか。人々は一斉に極右の連中に対する抗議の言葉を発し、口々に罵倒しはじめる。広場が突然不穏な雰囲気に包まれたのを察知した壇上の政治家は、現場にいた警察官に極右の若者をドームから排除することを要求する。そのときである。群集の中の誰かがNazis raus!(ナチスは出て行け!)と叫んだ。するとその短く的確なフレーズが瞬く間に広場全体に広まり、Nazis raus! の大合唱が巻き起こったのである。それまで各人がばらばらに口にしていた幾千もの抗議の言葉が、ほんの数秒間のうちにただ一つの声となった。そして、警察官が極右の若者を追い出すと同時に、おそらく広場にいた人々の一人なのだろうが、一人の若者がバルコニーに現れ、そこに掛けられた横断幕をひきちぎり、ドームの上から広場に向かって投げ捨てた。このとき晴れ渡る青空をバックにひらひらと宙を舞った黒い布のはためきは、いまも私の脳裏に焼きついている。その瞬間、広場に集まった数千人の人々のすべての瞳はこの黒い布に向けられていたに違いない。私は、私の眼差しが巨大な一つの眼差しの一部であることを直感した。それは黒い布を焦がさんばかりの視線の集中であった。

これは私だけが感じたことではないと確信しているのだが、幾千もの声と幾千もの眼差しがひとつになったこの瞬間、広場にいた人々の間に電流のようなものが走り、個人の間にあったクールな距離感が一瞬にして消え去ったように感じられた。それは鳥肌が立つほど強烈な体験であったが、同時に非常に危険な側面も持っていた。いずれにせよ、私はおそらくこのときはじめて、ヴァルター・ベンヤミンやエリアス・カネッティを始めとする20世紀の多くの作家や政治家が書き残した「群集」についての厖大なテクストの背後にある経験の一端に、皮膚感覚をもって触れたのである。このジャンダルメン・マルクトでの出来事がなかったら、私の博士論文のテーマがまったく違ったものになっていたことは確実である。

(初出:『Echo』 22号、2006年、DAAD友の会)

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