今年の国立文楽劇場の夏休み公演では、夜の部で新作浄瑠璃『まちの灯』が上演された。近年の国立文楽劇場の公演でチケットが売切れることはまずないのだが、『まちの灯』は日に日にお客さんが増えていき、最後の二日間は満員札止めになったそうである。私も8月初めに見に行ったが、後方の座席までお客さんで埋まっていて、とても盛り上がっていた。文楽が「まちの話題」になっていた感があった。
『まちの灯』の興行的成功は、今後の文楽座のプログラム編成にとって大きな意味を持ちうる出来事だと思う。演者の側にも観客の側にもある「新作」というものに対するどこか硬直した見方を解きほぐし、新作との向き合い方をより肩の力の抜けたものにするチャンスが、この作品の成功によって到来したのではないか。そうした観点から気がついたこと、考えたことを簡単にメモしておきたい。
私が『まちの灯』を観劇して感じたのは、良い意味で「普通の新作」だな、ということだった。
ここで言う「普通」には三つの意味がある。
まずこの作品は、現行の文楽の上演方式の枠内にとどまっていて、国立文楽劇場で無理なく上演可能な作品だった。たとえば、三谷幸喜氏の三谷文楽や、杉本博司氏の杉本文楽には、現行の文楽の上演方式を逸脱する仕掛けがある。床の位置を変えたり、手摺りを廃したり、マイクとスピーカーを使用したり、通常とは異なる人形の遣い方をしたり、背景に映像を投影したりといった仕掛けがそれにあたる。これらの新機軸は、享保19年(1734年)にその起点があるとされる、現行の三人遣いに最適化した上演方式を相対化する。それゆえ、これらの実験的な上演では、しばしば近松の作品が再浮上する。このことについてはすでに書いたことがある。
こうした試みと比較するとき、今回の『まちの灯』が、きわめてオーソドックスな上演方式を意識的に選択していたことは注目に値する。もちろん、『まちの灯』にも目新しい要素はある。たとえば、杉本文楽や三谷文楽と同様に客電を完全に落したり、スポットライトを使ったり、屋台のパースが斜めに傾いていたり、三味線に西洋音楽のフレーズが交じったり、川で溺れる人形の動きが古典作品にはないものだったり、ラストの大阪の街の風景に明かりが灯ったりする。ただそれらはすべて、かなり控え目な仕方で導入されていて、現行の上演方式を崩すようなものではまったくなかった。
同じことは、人形の操法、太夫の語り、三味線の演奏についても言える。たとえば、同じ八月に京都で再演(関西では初演)された三谷幸喜氏の新作『人形ぎらい』を考えてみる。この作品では、スケートボードに乗る文楽人形が話題になった。たしかに斬新である。しかし、そもそも手摺り舞台を廃してしまっているために、文楽人形の大胆で「自由な」動きも、どこか「恣意的な」ものに感じられてしまう。文楽人形の新たな魅力が発見されたのかと問われると、「どうでしょう?」と思わざるを得ない。
人形浄瑠璃の舞台の手摺りは、文楽人形の動きを支えると同時に拘束する。その支えと拘束があってこそ、人形の身体に力を漲らせる「型」が活きる。『人形ぎらい』では人形と人形遣いが共演するので手摺りを維持できないのはわかるけれども、その結果、文楽人形の体は宙に浮き、力が漲らなくなってしまう。陶然とするような形の美しさも消えてしまう。じっさいこの作品では、人形の型は、ほぼ封印されていたように思う。とりわけ女形の人形の動きには問題が多く、舞台奥から手前に女形の人形が移動してくるところなどでは、足のない幽霊のような存在が空中を水平移動しているかのように見えてしまうことがあった。
浄瑠璃について言うと、『人形ぎらい』に出演した太夫は千歳太夫や呂勢太夫で、実力的には申し分ない。ただ、三谷幸喜氏の文章の面白さは言葉のチョイスとテンポの良さにあるので、どうしても(特に盛り上がる場面では)アップテンポな語りになりがちで、節回しや音遣いによって情景や心情を描写する余地は限られていたように思う。三味線の演奏のほうも、かなり割り切ったものになっていた。文章を詞/色/地合に分けたうえで、それに基づいて節を付けていくというよりは、場面を音楽的に盛り上げることに徹していたように感じられた。もちろん、太夫・三味線と人形の関係については、マイクとスピーカーの使用が決定的な変質をもたらしているのだが、ここでは触れないでおく。
というわけで、『人形ぎらい』は賑やかで楽しいお芝居ではあるものの、全体として、人形浄瑠璃の舞台を見ている(聴いている)という感触は希薄だった。とはいえ、これはこれで、芸本位の芸能になる以前の人形浄瑠璃の姿(またしても近松!)を示しているとも言えるのであって、そこがこうした新作の興味深い点でもある。
『まちの灯』を『人形ぎらい』のような新作と比較すると、その文楽作品としての「普通さ」がいっそう際立つことになる。『まちの灯』はまぎれもなく「文楽」の新作だった。人形が手摺り舞台で演じていただけではない。浄瑠璃の文句は太夫によって節を付けて語られることを前提にして書かれていたし、三味線の手も単なる伴奏ではなく、人物や情景を描写するものとして付けられていた。クレジットを見ると、脚本・演出=大野裕之、補綴=豊竹若太夫、作曲=鶴澤友之助、作曲補助=豊竹希太夫、人形監修=桐竹勘十郎となっていて、若太夫さん、友之助さん、希太夫さんの貢献が大きかったのではないかと想像する。一方、『人形ぎらい』のクレジットを確認すると、監修=吉田一輔、作曲=鶴澤清介と書かれているだけで、太夫が文章に手を入れた形跡はない。実際には多少意見を言ったりはしているのかもしれないが、クレジットに名前を出して貢献を明記するほどではなかったのだろう。なんといっても人形が主役の『人形ぎらい』とは異なり、大野氏の脚本には、太夫・三味線・人形のそれぞれに「しどころ」を用意しようという配慮が感じられた(それがどの位うまくいっているかは別問題だとしても)。
『まちの灯』を「普通の新作」と感じた第二の理由は、この作品に古典作品とのつながりがいくつも見だされたことである。『人形ぎらい』のようにメタ的・パロディ的に文楽を参照するのではなく、ベタに同じ趣向が採用されていた。たとえば、冒頭の開眼式の場面は観客を参列者に見立てているが、これはちょうど同じ公演の第二部で上演された「恋娘昔八丈」の「鈴ケ森の段」の趣向でもある。また相撲場の場面は「双蝶々曲輪日記」の「堀江角力小屋の場」を連想させる。さらに盲目の女性をめぐる悲恋の物語ということで、「生写朝顔日記」を思い出す観客もいるだろう。「壷坂」だけではないのである。『まちの灯』は新作であるにもかかわらず、古典作品との接点を保っている。新作だからといってまったく新しい何かを作り出す必要はない。相対的に新しい文楽の作品として作ればよいのだ。そういうスタンスが感じられた。かつて人形浄瑠璃に新作が多かった時代にも、作り手はそうしたスタンスで作っていたのではないかと想像する。
すっかり長くなっているが、手短に「普通の新作」の三つ目の意味を述べたい。それは『まちの灯』が傑作ではなにしても、それなりに楽しめる作品だったということである。ほどほどに面白く、ほどほどにつまらない作品だったと言ってもいい。これは作品をけなしているわけではなく、「新作」とは、本来、そういうものなのである。私たちは日々、新しい映画、新しい小説、新しいマンガ、新しい音楽に触れているけれども、そのほとんどは傑作ではない。しかし、だからといって、まったくの駄作でもないはずで、そうしたものを楽しみながら、私たちは日々を過ごしている。ところが、人形浄瑠璃では、状況がまったく異なる。いまの文楽は古典作品が中心だが、それらの作品は、言わばオールタイム・ベストのようなもので、より抜きの面白い作品だけが上演されているのである。文楽の観客はそういう作品を見ることに慣れてしまっているので、目の肥えた(耳の肥えた)観客であればあるほど、新作に対して適切な距離感を持てない傾向がある。古典作品と同じ基準で新作を判定してしまうので、どうしたって不満を抱くことになる。演者のほうでも、おそらく状況はあまり変わらない。ここでも古典作品をベンチマークにして新作の出来を判断してしまうので、新作には関わりたくないと思ってしまう演者も少なくない。古典作品に魅かれて文楽座に入ったのに、なんで新作をやらねばないのか、ということかもしれない。
こうした観客と演者の新作に対する態度は、一見すると両極端な新作の試みに繋がりやすい。一方では、人形浄瑠璃の新作も一流の作品でなければならぬという固定観念から、文学史の名作や著名な文学者の書き下ろしが原作に選ばれがちであり、他方では、新作は新規の観客を獲得するための方策に過ぎないという考えから、やみくもに同時代の文化にキャッチアップすることが試みられる。いずれの場合も、古典作品をベンチマークにして新作を評価するという態度が根底にある。それが前者では新作への過大な期待に、後者では過小な期待に繋がっている。いずれにおいても欠けているのは、傑作ではないけれどもまったくの駄作というわけでもない「普通の新作」との、よりリラックスした向き合い方である。
私が『まちの灯』に感じたのは、上述の両極端な新作へのアプローチのいずれからも、一線を画する取り組みである。演出・脚本の大野氏は、はじめから「普通の新作」を作ろうとしていたように思える。『まちの灯』の文章は名文ではない(失礼!)。だが浄瑠璃の新作に本当に名文が必要なのかは、一度、きちんと考えてみる価値のある問題だと思う。たとえば、現在ではすっかり「古典作品」のような顔をしている「良弁杉由来」は、初演当時から内容空疎な悪文だと酷評されていた明治の新作である。この作品の文章は、その後、武智鉄二氏や内山美樹子氏にも批判されてきた。にもかかわらず、優れた演者によって上演されるとき、この作品は間違いなく感動的であり、傑作だとすら感じられるのである。「良弁杉由来」は明治の「普通の新作」だったのではないか。それが現在の地位にまで至ったのは、歴代の演者たちがこの作品の面白さを見いだして芸を工夫し、作品を磨き上げてきたからだろう。『まちの灯』が新たな「良弁杉由来」だと言うことはできないとしても、そのヒットは観客と演者に対して、文楽の「普通の新作」との向き合い方を思い起こさせる機会になるかもしれない。その意味でも、早い時期に再演して、作品をさらに磨き上げる機会を作るべきだ。加えて国立劇場には、演者たちが定期的に「普通の新作」に取り組めるような仕組みを制度化してほしいと思う。人形浄瑠璃の新作に取り組んでみたいと考える外部の作り手が文楽座にアプローチしやすくなるような、透明性の高い仕組みがあるといいのではないかと思う。