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「天下」を降りた男
『黒牢城』の反-政治

そう感じているのは私だけではないと思うが、目下、黒沢清監督は新たな黄金期の真只中にいる。この黄金期は『モダンラブ・東京』の第5話から始まった。『スパイの妻』も含めて2010年代の作品を思い返してみると、初見では面白いのに、見直してみると意外なほど退屈する作品が多かった(例外は『岸辺の旅』と『旅のおわり世界のはじまり』)。それに対して「彼を信じていた十三日間」以後の作品は、アナーキーな映画の魅力に溢れていて、何度見直しても退屈することがない。それはおそらく、黒沢清監督の「映画」の姿が、それらの作品により直接的に現れているからではないかと思う。いまや作品のテーマや物語はペラペラの書割に過ぎず、そんなものとは別の次元で黒沢作品が対峙する「世界」のありようが、ひとつひとつのショットの出会いを通して観客に迫ってくる。今回、『黒牢城』を最初にシネコンで見て、そのあと出町座で見直してみたら、やっぱり途轍もなく面白い。なので、いまさらだけれど少しメモしておきたい。

 以前、『蛇の道』のリメイクについて書いたとき、私は2020年代の黒沢作品の特徴として反復を指摘した。旧作の反復と映画の構造としての反復である。『黒牢城』は黒沢監督初の時代劇なので、さすがにあからさまな旧作の反復と呼べる要素は少ないが、それでも、映画の冒頭、城内の場面が始まってほんの数分のうちに黒田官兵衛(菅田将輝)が牢屋で鎖に繋がれてしまう展開は、『蛇の道』(2024年版)を反復しているし、牢屋のなかで荒木村重(本木雅弘)と官兵衛が繰り広げる駆け引きは、『キュア』の役所広司と萩原聖人を思い出させる。

 そういうわけで『黒牢城』にも旧作の反復という要素がないわけではない。とはいえ、この作品で際立っているのは、やはり構造としての反復だろう。『黒牢城』は、この点で『蛇の道』(2024年版)によく似ている。『蛇の道』では同じ復讐のプロセスが三回繰り返され、四回目の復讐が始まるところで映画は終わる。『黒牢城』では三回同じ謎解きのプロセスが繰り返され、四回目の謎を解く過程でそれら個別の謎の背景にあるより大きな謎が明らかになる。そして『蛇の道』(2024年版)では、復讐の構造を徹底して形式化することで、俳優のアクションがバリエーション豊かに展開していたのと同様に、『黒牢城』でも、謎解きのプロセスの形式化の結果、いくつかの同型のシチュエーションが繰り返され、そこで俳優のアクションがバリエーション豊かに展開することになる。

 じっさい、『黒牢城』を見る楽しみの大半は、監督自身ほとんど興味を示していない謎解きの過程にではなく、アクションの演出の豊かなバリエーションを味わうことにある。

 この映画はいくつかの反復されるシチュエーションの系列(セリー)によって構成されていると言っていい。思いつくまま列挙してみると、(系列1)家来たちが集まる会議の場面、(系列2)謎めいた出来事を受けて本木が家来たちを尋問する場面、(系列3)謎の解明のために本木が菅田を牢屋に訪ねる場面、(系列4)本木が家来たちの前で謎を解いてみせる場面、(系列5)本木と妻の吉高由里子が居室で会話する場面、(系列6)本木がもっとも信頼を寄せる部下であるオダギリ・ジョーと言葉を交わす場面などがあり、それぞれの系列が計四回の謎解きの過程で繰り返し現れる。これらすべての系列は、城主である荒木村重と他の者たちとの関係をその変化とともに描き出していくのだが、同一のアクションのカット割りが繰り返されることは一度もなく、その都度、異なる仕方で変奏される。たとえば、本木が個別に家来たちと向き合う系列2の場面では、両者の身分の隔たりがショットサイズの違いや距離の変化などを通して丁寧に描かれていくのだし、系列3の牢での対話の場面では、村重と官兵衛の関係の推移が、両者の距離や姿勢の違い、柱や格子との位置関係の変化などを通して示される。他方、系列5の村重と妻の場面では、同じ室内にいながら二人が正面から向き合うことは決してない。本木と吉高は一貫して同じ方向に体を向け、前後の関係に置かれている。言葉を交わしながらも、二人の視線はほとんど交わらないのである。これらの系列は基本的にすべて対話の場面でもあるので、切り返しショットが用いられる。にもかかわらず、決して単調にならないのは、要所要所で、視線の軸を多少跨いだ位置にカメラが置かれ、人物たちの位置関係とそれを見る視点が「仕切り直される」からでもある。

 いま述べたことからもわかる通り、この映画には対等な人間関係というものは存在しない。すべての人間関係は身分制社会の権力秩序によって構造化されている。黒沢監督の演出は、厳密きわまりないショットの選択と編集によって、厳しい権力関係に縛られた人間の生の揺らぎを可視化してみせる。この点でとりわけ印象的なのは、お堂のようなところで村重が妻千代保と対話する場面だろう。ここでは、現世にも極楽はあると示すことで「民」を救おうとした千代保の策略が、彼女自身の口から語られる。切り返し中心の映画のなかに出現する見事なワンシーン・ワンショットの場面である。このシーンの最後で、村重と千代保は、この映画で初めて同じ画面のなかで向き合い、至近距離から視線を交わらせる。だがそれはこの夫婦の心が通じ合う瞬間ではない。二人の間の溝が決定的になる瞬間である。村重が「お前の言う「民」には私も含まれるのか?」と問うと、千代保は「無論でござりまする」と返答する。しかし、戦国社会の武将で城主でもある村重にとって、自分が「民」の一部であるなどということは到底受け入れることのできない認識である。武将と庶民の間に違いを認めない千代保の言葉は、身分制社会のラディカルな否定であり、宗教的な革命思想だといってよい。このとき村重は妻との間に修復不可能な距離を感じていたに違いない。

 千代保は「民」の救済の思想によって身分制を否定した。では村重はどうしたのか。彼は千代保と家来たちを残して城を去るという選択をする。この村重の行動は、映画のなかで十分に動機づけられていない。というのも、城を出てみずから毛利に援軍を求めるというアイデアは、直前の場面で官兵衛が提案したものであり、村重は一瞬それに同意しつつも、村重の不在を突いて織田勢が有岡城を攻め落とすという勘兵衛の策略を見抜いて、糾弾していたからである。にもかかわらず、村重は勘兵衛の提案をそのまま家来に話し、家来を納得させてしまう。村重は自分の案が上手くいかないこと、つまり城が織田勢に攻められ、妻も家来も殺されることを知っていて、そうしたのか。武将の行動として考えると、それは不可解である。では、勘兵衛の予想が裏切られ、織田勢は攻めず、毛利への援軍の依頼が上手くいくと考えたのだろうか。だが、それでは村重が官兵衛を糾弾したことと矛盾する。映画は村重の動機を曖昧にしているのだろうか? むしろこのプロットの空白に黒沢監督の「映画」が浮上するとは言えないだろうか? 

 『黒牢城』が面白いのは、この映画で黒沢監督が初めて権力者(為政者)を主人公にしたことである。黒沢監督の作品では、様々な形で権力関係が描かれてきたけれども、それはほとんどの場合、社会の周縁にいる者たちの側からなされてきた。映画の中心にいるのは異端的な存在であることが多かった。それに対して黒沢監督は『黒牢城』で権力者を正面から描いている。そして、そのことによって、この作品には黒沢監督の権力に対する態度がもっとも鮮明に表れているように思う。

 村重が家来に計画を話す場面で、家来は村重の説明に納得しつつも、最後に「〈天下〉とはどういうものなのでしょう」と尋ねる。この問いに対する村重の答えは「〈天下〉など犬にでも食わせておけ!」というものだった。つまり、城を去るという村重の選択は、〈天下〉を取るための行動ではなかったのである。その動機づけを欠いた行動は〈天下〉から降りるという選択だった。権力をめぐって争うのではなく、権力関係そのものを廃棄すること。そのための第一歩として支配関係から降りてしまうこと。それが村重のアナーキーな選択だった。少なくとも映画『黒牢城』は村重をそのように描いていると思う。

 この映画のもっとも素晴らしい場面は、このアナキスト的な転回の後にやってくる。秋の尾根に吹き渡る風にすすきが波打ち、雲に遮られて刻々と変化する陽の光が降り注ぐ。この見事なロングショットに続いて、追っ手を振り払う村重一行が描かれる。敵を一通り追い払ったあと、村重と三人の家来は大きな木の前にやってくる。木の幹をフレームの中心に置き、その前に村重(本木)、与作(坂東龍汰)、下針(柄本佑)が立ち止まる、そして、最後に、画面一番手前の右側から十右衛門(オダギリ・ジョー)がフレームインする。少しずつ変化するフレーミングのなかで、背景の木と4人の人物が動きの中で完璧な均衡を一瞬作り上げる。このほとんどジョン・フォード的なショットとともに、映画は新たな局面を切り開く。村重の前に跪く十右衛門と彼の前で腰を落とす村重を示す、それまでにはなかったような「対等な」バストショットの切り返しが続く。ここで始めて男たちは戦国社会の武士の理から(多少であれ)自由になったように見える。その後、オダギリが別れを告げてフレームアウトすると、カメラは残された三人に向けて緩慢にフレーミングを変化させながら、再び見事な均衡を作り上げる。このあと柄本と村重の別れの切り返しショットがあり、残された二人は旅路を急ぐことになるのだが、本木の「〈天下〉など犬にでも食わせておけ!」からこのラストシーンまでの流れには、黒沢監督の「映画」のアナキズムが鮮やかに現れているように感じた。