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すまない、これは人間の仕事なのだ

訳者付記

 本務校の授業で使用するために日本語訳した文章を公開します。今回訳出するのは、南ドイツ新聞に掲載されたエッセイです。著者のカトリーン・ヒルデブラント氏は南ドイツ新聞の学芸欄担当のジャーナリスト(1985年生まれ)で、普段は文学や映画を中心に同時代の文化現象についてインタビューや批評を執筆しています。
 今年度の学部の演習では、「映画を観る、批評を読む、批評を書く」というテーマで授業をしています。最初に映画作品を鑑賞し、そのあと、その作品について書かれた批評文をひとつ読んで、著者がどのように批評を書いているのかを具体的に確認します。それから、受講生はじっさいに同じ作品について自分で批評を書いて回覧し、それぞれがどのように批評を書いたのかを話し合う。そんな授業です。この授業のイントロダクションとして、批評とはどのような文章なのかをわかりやすく、簡潔に論じた(比較的最近の)文章を探しました。批評という文章のもっともベーシックな特徴を説明するだけでなく、批評の歴史的・制度的条件を簡潔に素描する文章を探しました。ところが、探してみると、思いのほか適当な文章が見つかりませんでした。批評(の危機や終焉)については、近年、書籍も出版されており、雑誌などでも盛んに話題になっています。しかし、じっさいにそうした文章を読んでみると、みずから批評の書き手でもある論者それぞれの批評観を開陳する文章や、特定の批評家に特化した文章が多く、様々なスタンスの批評に通底する部分にフォーカスした(分量的にも丁度よい)文章にはなかなか出会えませんでした。他方、アメリカの分析哲学系の批評論の場合、批評の歴史的・制度的側面への考察が抜け落ちてしまいますし、リタ・フェルスキらの「ポスト・クリティーク」の議論にしても、大学の出版局で出版され、一般読者はまず読むことのないアカデミックな文学研究とジャーナリスティックなレビューとが、完全に分離したアメリカの状況に深く規定されており、日本で「批評」と呼ばれている言語活動との接点はかなり希薄です。(日本の批評の歴史的・制度的側面なら、もちろん大澤聡さんの『批評メディア論』が最強ですが分量が嵩みます。また三宅香帆さんの『考察する若者たち』に収録された書き下ろしの終章も、批評のベーシックな部分に触れていて良かったのですが、ターゲットにしている読者層にズレがありました。)
 そういうわけで、たまたま見つけたヒルデブラント氏のエッセイと拙著の第4章の一部(近代批評を論じた部分)をセットで読むことにしました。ヒルデブラント氏の文章は、生成AIがジャーナリズムに与える影響に関する議論の文脈で書かれたものですが、批評という営みの基本的な特徴を簡潔にまとめていると思います。原文はこちらから読めます。なお著作権その他の理由で予告なく公開を中止する可能性があります。

すまない、これは人間の仕事なのだ

カトリーン・ヒルデブラント

翻訳 海老根 剛

〔 〕は訳者による補足

(南ドイツ新聞、2026年6月18日)

 つい先日、ある土曜日の晩のこと。子どもたちが居間を駆け回っていた。大騒ぎだが、もう寝る時間だ。歯を磨かせて、読み聞かせをしなければならない。誰かが食卓を片づけ、散らかった床にできた道筋から、踏んだら最悪な小さなレゴのブロックを拾い集めなければならない。そんなとき、スマートフォンが突然、われ関せずといった調子で「ブブブ」と震えた。ドイツの有名な女優が亡くなったのだ。そしてそれは、この場面が演じられている家庭では、次のことを意味する。  たぶん私はこれからすぐに追悼記事を書かねばならない。お客もまだ帰っていないというのに。そのうちの一人、IT技術者の男が言う。「どうしてAIでやらないの?」

 その客は、いっそのこと、子どもたちを養子に出したらどうかと提案することもできたろう。あるいは、洗い物なんて燃やしてしまえ、と。それから二十分間、片づけもせず、追悼記事も書かずに、私たちは語り合った。ある根本的な事柄をはっきりさせねばならなかったからだ。  その客に対して、そしてどういうわけか、自分自身に対しても。というのも、いったいなぜ、それはまったく考えられないことなのか? 新聞の文化欄で仕事をしている人間が、AIのチャットボットを何度かクリックして原稿を仕上げ、それを送付してはいけないというのか。「はい、これで女優とのお別れは完了。追悼記事は完成。洗い物にとりかかろう。」なぜそうしてはいけないのか。

 それを説明しようとして、私が最初に口にしたのは、こんな言葉だった。「そうするくらいなら、書かなくても同じでしょ。」

 ここ数週間、著名人たちがAIと書くことというテーマを勢いよく私たち全員の目の前に突きつけてきた。まずノーベル文学賞作家オルガ・トカルチュクが、執筆過程でAIを利用していると発言した。次にテューリンゲン州首相マリオ・フォークトが、「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」紙(FAZ)に寄稿した文章をAIを使って作成していたことが明るみに出た。FAZはその記事を公開停止にした。そして最後に、シュプリンガー社〔ドイツ最大の出版社〕の取締役会会長マティアス・デプフナーが、一日くらい生意気なパンクの気分を味わいたかったのか、「ヴェルト」紙にフォークトの一件についての論評を公然とAIで作成して掲載した。

 それ以来、ドイツの編集部では地面が揺れている。どうやら私たちは、なぜこんな風に  自力で、頭と手を使い、汗と涙を流しながら  仕事をしているのかを説明しなければならないらしい。明らかに必要なのは、論争的な文章、パンフレット、人文的な介入である。手仕事のマニフェストが必要なのだ。

 興味深いことに、自分で文章を書くことを擁護するために、AIが生成する文章の質を批判する必要はまったくない。ChatGPTなどが時々でたらめを幻覚して作り出すとか、間違いを犯すとか、あまり洗練されていない文体を吐き出すとか、そういうことを持ち出す必要はないのだ。ほんの数か月後には、まったく事情が変わっているかもしれない。大規模言語モデルは猛烈な勢いで進歩しているのだから。だが、ここで重要なのはそうした点ではない。

 というのも、単なる実用文以上のものを目指す文章を書くとき、問題になるのは別の事柄だからだ。それは、フランス語でla beauté du geste〔見返りを求めない、美しく気高い行為〕と呼ばれるもの  「その事象そのもののために」ということだ。重要なのは、文章の背後に一人の人間がいるということ、あるいはむしろ、一人の人間が背を丸めて机に向かっているという事実なのである。これは高級な文学作品にだけ当てはまるのではない。ジャーナリズムの多くの形式にも当てはまる。

 ルポルタージュが成り立つのは、一人の人間が何かを体験し、それについて報告するからだ。インタビューとは、二人の現実の人間のあいだの会話であり、出会いである。新聞の文化欄に掲載される文章の形式は、なぜこうしたものが機械によって代替できないのかを示すのに、とりわけ適しているかもしれない。純粋に技術的に見れば、可能だったとしても、である。

 追悼記事の話だった。追悼記事とは何か。ある芸術家が亡くなり、誰かがその人の仕事を振り返り、いくつかの逸話を語り、その人の何が特別だったのかを描き出す。たいていはそこに漂っているある種の温もりや敬意をひとまず措くとするならば、追悼記事がウィキペディアの記事と異なるのは、ただ一つの事情による。すなわち、誰かが  もしかすると土曜日の晩だというのに  机の前に座り、その芸術家に別れを告げようとした、ということである。誰かが記憶を辿りなおし、もう一度だけ懐中電灯でその芸術家の全作品を照らし出し、書き手にとって重要に思えることを選び出して、それを  ときにはなかなか進まないリアルタイムの思考なかで  言葉にしたのである。一人の人間が、一人の芸術家の仕事と向き合い、こう言うのだ。「それはこういうものだった。そして、そのいくつかは素晴らしかった。」

 人工知能がこの身振り、この真剣な努力を代替できないことに、技術的な理由は一つもない。たとえAIが  きっと近いうちにそうなるだろう  ほとんど事実誤認をしなくなり、疲れた編集者〔記事の執筆者〕よりもはるかに網羅的にある芸術家の仕事を概観するようになったとしても、AIがその編集者を代替することはできない。なぜなら、批評、すなわち芸術と世界について考えることは、きわめて人間的な営みだからだ。批評とはコンテクスト〔文脈〕であり、主観性であり、一人の個人と他者たちとの交流である。批評は、芸術が人間にどのように働きかけるのかを、一人の個人〔書き手〕を例にして、示すのである。

 YouTubeに、あるアメリカ人の英文学教授による素晴らしいビデオエッセイがある。そこで彼は、なぜ「作者」としてのAIが自分の関心を惹かないのかを突きとめようとしている。そのために彼は、影響力のある詩人ガートルード・スタインの詩を引用する。この選択には理由がある。「私が彼女の詩を理解できない」からだ。スタインは、かろうじて意味をなしそうな言葉同士を組み合わせる。「Tender buttons(柔らかなボタン)」? 「A rose is a rose is a rose.(薔薇は薔薇であり薔薇である)」。この種のナンセンスを詩作することなら、AIにだってできる。だが人間がそれをするときには、事情が異なっている。その教授は言う。「彼女が文章を通して私に触れようとするのを感じる。」AIが「柔らかなボタン」について書いても、その背後にあるのは空虚だけだ。

 これは芸術そのものだけでなく、芸術に対する批評、芸術との対峙、つまりレビューというジャンルにも当てはまる。ひとつ例を挙げよう。先週の火曜日のこと、スティーヴン・スピルバーグの新作映画の情報解禁時刻から5分が過ぎたところだ。大作、つまり高い興行収入が見込まれる映画が公開される場合には、製作会社は、世界中の批評家に対して、厳密に指定された時刻まで待つように命じる。その時刻になって初めて、批評家はレビューを公開することが許される。したがって、それ以前には、他の批評家がその映画についてどう考えているのかを知る批評家はいない。せいぜい、友人や、試写会で偶然一緒になった数人の人たちと話しているだけだ。

 さて、同僚はそのスピルバーグの映画について、とっくに原稿を書き終えている。それは酷評で、映画作品を「厚かましい代物」とまで呼んでいる。現存するもっとも伝説的な映画監督の一人を相手にそう断じるには、相当な自信が必要だ。18時を5分過ぎたころ、彼からチャットのメッセージが届く。「ピーター・ブラッドショーはスピルバーグを絶賛している。」ピーター・ブラッドショーは、少々気難しいことで知られる、イギリスの日刊紙「ガーディアン」の映画批評主任である。

 自分で文章を書く人間は、他の人が何を書いているのか知りたくなる。それは、芸術作品というものがさまざまな方向に開かれているからでもある  あらゆる方向に、というわけではないにせよ。芸術について語ることは、人間どうしが人間であることについて交わす対話なのだ。ひとが映画や詩や絵画について考えるとき、そこには、その人が何者であるかが表れる。人生で何を聞き、何を読み、何を見て、何を経験してきたのか、それが表れるのだ。批評家として満たすべきさまざまな基準があるにせよ、芸術についての考察〔批評〕には、つねに主観的なものが含まれている。だからといって、それがつまらないものになるわけではない。構造主義者やポスト構造主義者は、あらゆる発話を通して語るのは言語  あるいは文化  なのだと言う。しかし、それは一人ひとりの人間を通して、それぞれ異なる仕方で語るのである。

 たとえ人生の半分をかけて、映画や歌や小説についての知識を蓄え、それらを互いに関連づけることに従事してきたとしても、誰が語っているのかは重要である。子どものころ、いつ何を読んだのかは、取るに足らない事柄ではない。十二歳のとき、風邪をひいて祖父母の家のソファに寝転び、年齢に合った本がなかったので、本棚から『ボヴァリー夫人』を手に取ったことがあるかどうか。ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』は理解できなかったけれど、何となく魅力的だと感じたことがあるかどうか。幼いころ、どの本に慰められ、どの本に心をかき乱されたのか。もちろん、ここではアイデンティティの問題も関係する。男なのか女なのか。どの年代から決定的な影響を受けたのか。クィアなのか異性愛者なのか。両親はいま自分が暮らし、本を読んでいる国とは別の国で生まれたのか。

 何年か前、私はベルリン文学コロキウムで行われるアルフレート・デーブリーン賞の朗読コンテストに参加したことがある。そこでは若い作家たちが執筆中の小説の原稿を朗読し、受賞者には執筆を続けるための奨学金が与えられる。ある若い無名の作家  残念ながら、その後二度と名前を聞くことがなかった  が、イエス・キリストの架空の娘の視点から書かれた文章を朗読した。その娘が父親の生涯の最後の日々について語るのだ。無邪気で、非常に繊細で、子どもらしい高揚感を帯びた調子で。

 審査員も聴衆も反応は鈍く、懐疑的だった。どうやら彼らには聖書的なロマンティシズムが強すぎると感じられたらしい。しかし、私は感動した。文学業界通のある賢い人物に言わせれば、それはごく当然のことだった。なぜなら、「きみは東ドイツ出身だからね。きみにとって、宗教は、自分をそこから切り離さねばならないようなものではない。」私が何者であり、何を知っているのかは、私が芸術について下す判断に影響を与える。しかし、ときには、それがまったく影響しないこともある。そうしたことにも理由はある。芸術について語ることは、きわめて人間的な対話なのである。

 芸術とは、人類がこれまでに考え出した  大仰な言い方を好むなら、「最高の」と言ってもいい  表現形式である。芸術について考え、それについて他者と語り合うとき、ひとは人間であること〔人間であるとはどういうことか〕それ自体に取り組んでいる。機械に、それについて何が言えるだろう。身体を持たず、データを収集して編集するだけの機械に。失恋の痛手も知らなければ、転んで膝をすりむいたこともない機械に。そして、プロンプト遊びの冗談としてならいざ知らず、そんな機械の言うことに誰が関心を持つだろう? 「ChatGPT、マルセル・ライヒ=ラニツキ〔ドイツの著名な文芸批評家、2013年死去〕なら新しいスパイダーマン映画をどう評価したと思う?」あるいは、「ドラゴンとそれに乗る人間が出てくるこのロマンタジー小説のシリーズを、スーザン・ソンタグ風に批評して!」一方、スーザン・ソンタグはこう言っていた。「私は、自分が何を考えているのかを知るために書く。」

 ともあれ、数週間前のあの混沌とした晩、IT技術者はさらにこうも言った。「そうすれば、ほかのことをする時間ができるじゃないか。」だが、いったい何をするというのか? 自分の子どもたちと一本の原稿のどちらかを選ばなければならないなんて状況は、実際には例外的だ。もっとずっとありがちなのは、書く仕事がなければ、またぞろスマートフォンのコンテンツを何百メートル分も延々とスクロールするだろうということだ。AIが人間をもっとも人間的なものから解放してしまうのなら、AIは何のために人間を解放するのだろう?

 人間であることについて書き、考えるという営みに、AIが付け加えられるものは何もない。なぜなら、それは私たちの問題だからだ。機械の問題ではないのである。