フィクショナル・シティ-
マドリードの消滅と回帰(アルモドバル論)

1970-1997

1970年1月、マドリード。人影も通りすぎる車もない夜の街路に二つの声が響いている。ひとつはラジオから流れてくる、戒厳令を布告するマヌエル・フラガ・イリバネの声であり、もうひとつは粗末なベッドのうえで陣痛に苦しむ女の叫び声である。売春宿の女主人は病院に連れていくため、妊婦を静まりかえった通りに連れ出す。彼女の奮闘のおかげもあって、たまたま通りかかったバスに乗り込むことができた娼婦は、車中で彼女の息子であると同時にマドリードの息子でもある ––– ニュース映画も「市の養子」だと伝えていたではないか ––– 男の子を出産することになるだろう。

「この子の名前は?」
「ヴィクトル」
「ヴィクトル、これがマドリードだよ」

次の瞬間、私たちは、ヴィクトルのまだ物を識別する力のない瞳にそのときひょっとしたら映っていたかもしれない光景を ––– 夜の闇に浮かび上がる凱旋門を ––– 目撃する。『ライブ・フレッシュ』は、こうして、その冒頭から大きな歴史 ––– フランコ時代から現在まで ––– と小さな歴史 ––– ヴィクトルの人生の物語 ––– とを、マドリードという都市空間の中で重ね合わせる。

ところで、アルモドバルがこの作品のほんの四年前に『キカ』を撮っていたことを想起するなら、これは驚くべきことではないだろうか。というのも、『キカ』においては、このような試み ––– フィクションを具体的な都市空間や歴史のコンテクストのなかに位置づけること ––– は、単になされなかっただけではなく、意識的に回避されていたからである。この二本のフィルムが打ち立てているフィクションと世界=マドリードとの関係性は、ほとんど正反対なのだ。二本のフィルムの間で何が起こっているのだろうか。少なくとも、『キカ』と『ライブ・フレッシュ』との間にあるのが、ある一人の映画作家の進歩や退行ではないことは確実だ。むしろ、そこにあるのはフィクションの二つのまったく異なる方向づけをめぐる選択である。

そのことを具体的に思考するために、私たちは時間を遡る旅に出よう。そしてかつてアルモドバルのマドリードに何が起こったのかを見てみることにしよう。

1988

マドリード消滅計画1 ––– 開始。「現実の」マドリードがこの地上から消滅したことなどいまだかつてなかったのは確かだが、アルモドバルのフィクションからマドリードという都市が消去されていった一時期が存在することは紛れもない「現実」である。しかも、それは「この地上」をフィクションから追放することと連動していたのだが、これについては後で触れる機会があるだろう。

マドリードを消し去る計画は、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』によって実行に移される。だが、それはなにもアルモドバルがマドリード以外の場所でフィルムを撮り始めたということではない。アルモドバルはマドリードにとどまり続けているのだが、フィルムが周囲の環境の反映であることを拒否し、自律的な表象の迷宮になろうとし始めるのである。たとえば、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』の最初のショットは、主人公の女性ペパ(カルメン・マウラ)が住む場所であり、また、このフィルムの出来事の主要な舞台でもあるマンションのミニアチュア模型を示す。そして私たちはこの模型=表象の中へと入っていくのだ。この作品はこのミニアチュア模型の内部空間で、つまり一つの表象空間のなかで展開するのである。フィルムの冒頭でペパがピンク色の服を着たままベッドに倒れこみ、睡眠薬のせいで果てしなく眠り続けているあの部屋、「アルモドバル・カラー」によって統一され、テラスの向こうには書き割りの都市(都市の表象)が見えるあの部屋は、ペパにとって「表象の地獄」以外のなにものでもない。というのも、彼女を「神経衰弱ぎりぎりの女」にしているのは、愛人であるイヴァン(フェルナンド・ギレン・ケルヴォ)の存在でも、彼との愛の終わりでもなく、彼が次から次へと口にする嘘であり、留守番電話に残された彼の声であり、彼が書いた手紙や二人で撮った写真であるからだ。それゆえ、ペパは自分の精神を脅かすもの、すなわちイヴァンの表象とそれを伝達するメディアを手当たり次第に廃棄する。電話やテープレコーダーやレコードを窓の外へと放り出し、写真や手紙を破り捨て、イヴァンとの愛を思い出させるベッドに火をつける。このフィルムでは、ペパは最後のシーンまでイヴァンと会うことはない。彼はこのフィルムでは終始フレームの外部にとどまり、ペパの部屋には彼の表象だけが侵入し、それが彼女の精神のバランスを崩してゆくのである。

この作品では都市はテラスから見える書き割りの風景になる。そしてすでに、マドリードの街路も出来事のための場所ではなくなっている。街頭でペパがすることといえば、イヴァンの別れた妻の家の前のベンチに座り、窓を通して室内の様子を伺うことぐらいでしかない。ペパはこの家に行くために街頭でタクシーに乗り込むが、そのタクシーの車窓からもマドリードの街並みが見えることはない。それどころか、タクシーの車内には豹柄の装飾が施され、たくさんのグラビア雑誌と薬が備え付けられている。つまり、タクシーもまた、移動する室内、そしてもうひとつの表象空間なのだ。

マドリード消滅計画は、単にアルモドバルのフィルムからマドリードの風景を消し去るだけではない。この計画はフィクションの全体に影響を与える。この計画の進行とともに、『セクシリア』の冒頭でマドリードの市場の雑踏のなかを男を物色してさまよっていたセクシリアのようなニンフォマニアやリサのようなゲイ、『罰当たり修道院の最期』の修道女たち、ディエゴ・モンテスのような「マタドール」など、一群の人物がもはやフィクションの中にしめるべき場所を失うのである。これらの人物たちに替わって登場するのは、表象の世界で活動する者たちである –––『神経衰弱ぎりぎりの女たち』のペパとイヴァンはともにテレビ局で映画の吹き替えやCMの仕事をしているし、『アタメ!』の主人公マリーナ(ビクトリア・アブリル)や『ハイヒール』のベッキー(マリサ・パレデス)は映画女優であり、ベッキーの娘のレベーカ(ビクトリア・アブリル)はテレビのニュースキャスターであるといった具合である。だが、この計画によって追放されたもののうち最も忘れがたいのは、掃除婦グロリアと彼女が住んでいた集合住宅であろう。

1984

マドリード消滅計画が進行する『神経衰弱ぎりぎりの女たち』から『キカ』までの時代のアルモドバルのフィクションにもっともふさわしくない存在は、『グロリアの憂鬱』の主人公グロリア(カルメン・マウラ)だろう。

いま私は「主人公」と書いたが、このフィルムの最初のショットによってアルモドバルが私たちに示していたのは、「主人公」という言葉は彼女にはふさわしくないということであった。映画のロケが行われている集合住宅の前の広場をグロリアが通りすぎていく。スタッフも見物人もグロリアには見向きもせずに撮影の進行を見守っている。カメラはこの女性がこれから始まろうとしている映画の主人公であることを観客に悟らせないようなやり方で、遠く離れたところからロングショットで彼女の歩いていく姿を捉える。この無関心を装うロングショットは、フィルムがこれから語るのは映画の撮影現場のそばを通りすぎてゆくような女性、したがってカメラの前に立って演技し、劇的な運命を生きることなどない女性、つまり決して映画の主人公になどならないような女性の物語なのだということを示唆していた。グロリアはいつもくすんだ世界の端にいる。彼女は掃除婦として他人の家の片隅で仕事をし、貧しい家庭の主婦としてマドリードの端、高速道路に隣接して建っている薄汚れた集合住宅の狭い部屋に住んでいる。このような女性が『神経衰弱ぎりぎりの女たち』以後の世界のどこに場所を見出すことができるだろうか。

『グロリアの憂鬱』は、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』以前のアルモドバルの世界=マドリードの構造を最も明快に提示している作品でもある。その構造は、集合住宅の隣り合う二つの部屋 ––– グロリアの部屋とクリスタル(ヴェロニカ・フォルケ)の部屋 ––– の関係にみてとれる。グロリアの部屋は狭く、家具も壁紙もくすんだ色彩で埋められ、家族がひしめき合い、そのくせ恐ろしく孤独で出口のない「現実」の世界である ––– アルモドバルはグロリアが自殺を思いつくラスト近くのシーンまで窓をフレームから周到に排除している。それに対して、壁一枚隔てただけのすぐ隣りの部屋でありながら、娼婦クリスタルの部屋は別世界である。そこは赤を基調とした原色で埋められ、非現実主義的で、様々な表象(写真や漫画、ポスターなど)にあふれ、陽気で倒錯的なセックスの魅惑に満ちた独身者の世界なのだ。ここで重要なのは、この二つの世界がたえず通底していることである。グロリアはクリスタルの部屋に来て露出狂男のストリップ見物につきあうし、クリスタルもまたしばしばグロリアの部屋の部屋を訪ねて彼女に仕事を紹介したりする。現実主義的な世界とエキセントリックな世界が通底し、それら二つの世界に暮らすまったく異なる人物が共存している場が、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』以前のアルモドバルのマドリードなのである。『神経衰弱ぎりぎりの女たち』以後のフィルムは、そのような二つの世界の通底性を廃棄するとともに、フィクションからレアリスムを追放し、マドリードを表象空間としての都市へと抽象化していくことになる。

1993

マドリード消滅計画2 ––– 完成。『キカ』とともに、アルモドバルのフィクションからのマドリードの消滅はその頂点に達する。このフィルムでは、もはやマドリードという都市の空間的な広がりはいかなる役割も果たしていない。ほとんどのシーンは二つの室内空間、すなわち、ラモン(アレックス・カサノヴァス)とキカ(ヴェロニカ・フォルケ)が暮らすマンションの部屋とニコラス(ペーター・コヨーテ)が妻と住んでいたユーカリ館で展開する。この二つの室内はともにペパの部屋のような表象空間なのだが、ここでは、マドリード市内として設定さていると思われるキカの部屋に話を限定しよう。鮮やかな色彩に彩られ、窓の外には『神経衰弱ぎりぎりの女たち』のそれよりもさらに単純化された都市の書き割りが見えるキカの部屋は、ペパの部屋よりもさらに陰惨な表象の地獄である。グロリアがあの狭苦しい集合住宅の部屋で夫の身体的暴力に晒されていたとするならば、キカは現実との関係を転倒させた表象の暴力に脅かされている。

このフィルムの登場人物を見てみよう。だが、このフィルムについて「登場人物」を語ることは適当ではないのかもしれない。なぜなら、実際には、このフィルムに登場するキカ以外の人間たちはもはや登場人物ではなく、都市空間に流通する表象の暴力のエージェントのようなものになっているからだ ––– そしてキカもまた、ただ一人表象の暴力と無縁な無垢な存在として理念化されている。ラモンはファッション写真家であるが、彼はカメラのファインダーを通してしか ––– 表象のフレームの中に閉じこめることによってしか ––– 女に欲望を感じることができない。キカとのセックスの最中にも彼はカメラを手放すことができない。ラモンの父ニコラスは、現実の事件に着想を得て小説を書くかのように装いながら、実際には小説を書くために人を殺す男である。そして、アンドレア(ビクトリア・アブリル)は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』以後のフィルムの登場人物たちの最終形態とでも言うべき存在だ ––– 表象機械(ヴィデオカメラ)と人間とのハイブリッド=アンドレア。彼女は現実に起こった陰惨な事件をスペクタクルに仕立て上げる「リアリティ・ショウ」の司会=レポーター=カメラマン=ヴィデオカメラであり、かつての恋人ラモンへの執着からキカの部屋を監視している。丸い穴の空いた壁や扉のある室内で、キカは可視的あるいは不可視的ないくつものフレームに閉じこめられている ––– フレームに閉じこめられ、監禁される女、これはすでにこのフィルムのメイン・タイトルのイメージによっても提示されていた。そして、このような表象の暴力が渦巻くキカの部屋にポルノ男優のポール・バッソが侵入する。「強姦もの」のヴィデオに出演していたポルノ男優が現実にキカをレイプするのだ。さらにバッソがキカをレイプしている様子はアンドレアのヴィデオカメラによって撮影され、彼女のテレビ番組の中で放送されてしまうことになる。

様々なメディアが産み出す表象が現実との関係を転倒し、暴力装置として身体を脅かす場 ––– それがこのフィルムの舞台であるキカの部屋である ––– とは、都市にほかならない。つまり、アルモドバルは『キカ』において、フィルムからマドリードを排除することによって、物理的な空間的広がりとは異なる次元に構成される都市空間をフィクションの中に持ち込んだのだ。その意味で、キカの部屋とはひとつの都市である。アルモドバルが語るようにこのフィルムでは都市は空気のなかに存在している ––– そこで生きる身体を脅かす陰惨な暴力の気配として。だが、ここで言われる「都市」をただちにマドリードのことだ考えるのは正しくない。おそらくその「都市」はマドリードでもありうるだろうが、同時に、パリでもベルリンでもロサンゼルスでも東京でもあるだろう。『キカ』のフィクションはそれらの都市でも十分に成立可能なのだ。ラモンが南米旅行から帰ってきたニコラスをマドリード駅で迎えるシーンだけが、かろうじてこのフィルムをマドリードに繋ぎとめているのである。

ここで私たちは、なぜ『神経衰弱ぎりぎりの女たち』から『キカ』までのフィルム群の舞台のほとんどがマンションの最上階近くの部屋に設定されているのかを理解することができるようになる。それはフィクションが「この地上」、すなわち物理的・地理的に限定された都市空間=マドリードから離脱し、より抽象的であると同時に遍在的な都市空間=表象空間のなかへと移行したことに対応しているのである ––– グロリアの「マドリード」からキカの「都市」へ。思えばグロリアの部屋もかなり上の階にあった。だが、グロリアとキカの部屋には、一つ決定的な差異がある。『グロリアの憂鬱』のラストシーンを思いだしてほしい。母と息子を田舎に送り出したグロリアは一人で部屋に戻り、空っぽになった室内を見回す。彼女の視点ショットによって、このフィルムではじめて、開かれた窓が示される。グロリアはまるでなにかに導かれるかように室内からテラスに出るのだが、彼女の目の前には向かいの集合住宅の高い壁面が立ちはだかり、視界を完全に遮っている。それゆえ絶望した彼女の眼差しは必然的に下方へと導かれ、自殺の誘惑が彼女を捉える。だが、グロリアが地上へ眼差しを向けまさに身を投げようとするその瞬間、地上で一人の男の子 ––– すでに養子に出していたはずの息子である ––– が彼女に向かって手を振るのが見えるのである。彼女を生へと繋ぎとめたのはこの地上への眼差しだ。この視線、この俯瞰ショットは、グロリアの部屋と地上とをしっかりと結びつける。この視線がフィクションとマドリードを結びつけ、このフィルムのレアリスムを可能にしているのだ。それに対して、キカの部屋はこのような地上との絆を欠いている。キカは決して地上へと視線を投げかけることはない。室内から見られたマドリードの街頭を映し出す俯瞰ショットは存在しない。ある夜キカはテラスに出てくるのだが、視線を地上にではなく上方に向け、上の階のニコラスの部屋から聞こえてくる物音と女の声に耳を澄ますばかりだ。このときキカの部屋のテラスからニコラスの部屋のテラスへと滑らかに上昇するカメラの運動が、キカの部屋を空中に浮遊しているように見せるのは偶然ではない。すでに指摘したとおり、このフィルムにおいてキカの部屋は地上の物理的空間とは異なる次元に見出される都市であるのだから、『キカ』の室内空間はマドリードの上空どこか定かならぬ場所に浮いているといえるのだ。そのような室内空間を舞台とするフィクションがレアリスムとラディカルに手を切るのは当然である。そして、フィクションが地上から宙に浮き上がるということは、その地上に堆積する地層=歴史的時間もまたフィクションから消滅することを意味する。だからこそ、このフィルムはどこか未来的な雰囲気に包まれているのであり、意図的に曖昧にされた時間的秩序によって組織されているのである。『キカ』という作品で試みられていたことは、都市が完全な無名性に没するぎりぎりのところまで、フィルムからマドリードの痕跡を消去すること、あるいはフィクションをいかなる歴史的時間からも、地理的空間からも解放することであったということができる。しかし、アルモドバルのフィルムはまさにそのようなフィクションの方向づけによって、物理的空間としての都市に還元されえない都市の位相をフィクションに導入したのである。

1995

ローマでナンニ・モレッティがフィクションの新たな方向づけを模索しながら「親愛なる日記」を書き始めていた頃、いまやマドリードの映画作家であることが作品にとって大した意味を持たなくなってしまったように見えたアルモドバルにも、フィクションについて反省すべき時が来る。彼はフィクションについてのひとつの考察を、日記形式ではなくメロドラマの形式で書き記した ––– それが『私の秘密の花』である。

主人公の女性レオ(マリサ・パレデス)は長い間「アマンダ・グリス」というペンネームで甘ったるいメロドラマを書き続けてきたのだが、いまや彼女は「アマンダ・グリス」という虚構の存在と彼女が作り出す人生の幻影に嫌気がさしている。また、彼女は夫パコ(イマノル・アリアス)との愛がすでに終わっていることを知っていながらも、その現実を受け入れることができない。つまり、彼女は現実と虚構との折り合いがつけられなくて苦悩する女性なのである。現実を受け入れること ––– このフィルムの冒頭が提示するそのようなテーマは、『キカ』の定かならぬ時空を浮遊するフィクションにそれが排除したものを導入することとも言い換えられる。事実、レオの仕事部屋の机の側で彼女が眠っている、作品の冒頭のシーンでは、カメラはまず窓のブラインド越しに学校の校庭で遊ぶ子供たちの姿を俯瞰していたし、戸外から吹き込む風の力で窓が開き机の上の本のページが翻り、同時に下方から校庭にいる子供たちの声が聞こえてくるという、『キカ』のようなフィルムでは決してありえない瞬間が含まれていた。また、窓の外には書き割りの都市しか見えなかったキカの部屋に対して、アンヘル(ホアン・エチャノベ)の部屋ではたくさんの窓から現実のマドリードの風景が見えてもいた。さらに街頭で展開するいくつかの重要なシーン。そして『イタリア旅行』からの引用……。

しかし、これらのシーンからアルモドバルのレアリスムへの ––– あるいはロッセリーニ流のネオレアリスムへの ––– 回帰を結論するとしたら、それはすこし単純すぎるだろう。スタジオではなくロケで撮れば現実的だと考えるほどアルモドバルは怠惰でもナイーヴでもない。『神経衰弱ぎりぎりの女たち』から『キカ』にいたる一連のフィルムによってマドリードをぎりぎりのところまでフィルムから消去したアルモドバルが、再び『グロリアの憂鬱』のレアリスムに戻ることなどありえないのである。

実際、『私の秘密の花』が語っているのは、虚構の存在(「アマンダ・グリス」)と手を切って現実を受け入れて生きていくということではなく、まったく反対に、虚構の存在を持つことによって現実をより豊かにする可能性である。レオがパコとの愛の終わりを乗り越えて生きていくことができるようになるのは、アンヘルとの出会いがあるからである ––– 母親の存在だけでは自殺を思いとどまらせることはできても生き続けることを可能にするには不十分なのだ。アンヘルとは何者か? 彼は編集者である。彼のおかげでレオは新しいペンネーム「パス・スフラテギ」を手に入れ、新たに虚構の存在とともに生きてゆくことが可能になる。そして、何かというと映画の一場面を引き合いに出すアンヘル自身もレオから虚構の存在「アマンダ・グリス」を手に入れる。アンヘルとは、つねにフィクションを生のために活用する術を知っている男なのだ。

生きつづけることを可能にし、現実を豊かにするために、いかにフィクションを活用するのか? あるいは、フィクションは生きること、愛することの役に立つのか? ––– これが『私の秘密の花』の最も内密な問いである。だからこそ、アルモドバルはこのフィルムの決定的な三つのシーンを三本の映画の引用(フィクションの活用)によって構成しているのだ ––– しかもいずれもフレーミングまで引用=活用しながら。

1 アルモドバルによる『イタリア旅行』の引用=活用。自殺を思いとどまったレオは街頭で医学生のデモ隊に巻き込まれる。彼女が泣きながら群衆をかき分けていくとアンヘルが現れ、二人は抱き合うことになる。この『イタリア旅行』の引用による場面は、アンヘルがレオを決定的に愛し始める瞬間であると同時にフィクションのなかに政治的空間としての都市を導入する。

2 アルモドバル=アンヘルによる『カサブランカ』の引用=活用。静まり返った夜のマドリードの街路で、アンヘルは『カサブランカ』を愛の告白に活用する。「あの映画のイングリット・バーグマンのように、君もあのデモの日に青い服を着ていた。僕はあの日を一生忘れない」。

3 アルモドバル=レオによる『ベスト・フレンズ』の引用=活用。フィルムの最後、一度はアンヘルと別れて部屋に戻ったレオは、しばらくして彼の部屋を訪ねる。暖炉の前にテーブルを挟んで二つのソファが置かれているのを見てレオは言う –––「『ベスト・フレンズ』みたい」。 アンヘル:「でもあの映画の設定は大晦日の日だったし、君は禁酒中だ」。レオ:「お酒を頂戴。じゃあ今日は大晦日ということにしましょう」。 アンヘル:「大晦日ならキスしよう。温もりがほしいから」。

このようにレオは新たな愛の始まりのためにフィクションを活用する。『私の秘密の花』は、どのようにしてレオが生のためにフィクションを活用する術を学ぶのかを見つめているのである。そしてそれは同時に、どのようにしてフィクション=映画を、新たに世界=マドリードへと方向づけることができるのかを思考することでもあったのだ。

1997-

『ライブ・フレッシュ』では、マドリードがこれまでのどのフィルムにもまして時間的な厚みをもって現れてくる。ヴィクトルの生まれた戒厳令の夜のマドリードから、20年後の事件の夜を経て、ヴィクトルの息子が生まれるクリスマスの夜のマドリードまで。あの戒厳令の夜にもそこに建っていたであろう古い売春宿の建物から、最新の高層ビルの背後で今まさに地上から姿を消そうとしている廃墟のようなプレハブ住宅まで ––– そして凱旋門やこの都市の死者たちが眠る墓地も忘れてはなるまい。ヴィクトルの人生の物語というフィクションが、このようなマドリードの厚みをフィルムに刻み込むことを可能にしたのだ。ところで、アルモドバルはインタヴューで、「僕は風景を移動撮影するように顔を撮りました。まるで宇宙飛行士が望遠レンズで天体を観測するように、レンズを通じて長い間、二人の身体を見ていました」と語っている。風景の移動撮影といえば、ヴィクトルが乗ったバスから見られたマドリードのことを想起してもいいだろう。アルモドバルの言葉はヴィクトルとエレナとのラブシーンにだけではなく、このフィルム全体に当てはまる。アルモドバルは登場人物たちの肉体を、マドリードを見るのと同じ眼差しで見つめている。五人の男女はそれぞれに悲劇的で複雑な存在の厚みを持って現れてくるのだが、彼らがたどることになる運命はすべて肉体の震えにおいて観測されているのである。ヴィクトルの物語の起源の瞬間、あの人気ないマドリードの街路に最初に響いた苦痛の叫び声は、みずからの肉体の震えにおののく女の声ではなかっただろうか。マドリードの風景のように厚みを持った肉体をアルモドバルは見出した。だとしたら逆に、こうも言えるはずである:震える肉 ––– それはマドリードのことである。

(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.25、勁草書房、1998年9月)

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