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『青山真治クロニクルズ』(リトルモア刊)に文章を寄せています

昨年3月に逝去した青山真治監督の人生と仕事を、監督本人と監督の人生に関わりのあった人々の言葉で再構成した書籍が出版されました。まだ全部読み通したわけではないですが、この本、本当にすごいです。映画本の傑作だと思います。

まずタイトルに含まれる「クロニクル」という単語が複数形であることの必然を感じます。この本では監督自身の発言も、色々な時期に様々な立場で監督と関わりをもった105名の人々の言葉も、すべては無差別に、同列に扱われています。そしてそれらの言葉が同じ地平で出会い、交差し、すれ違うことで、様々な響きが生み出されます。ひとつの映画作品が一人の映画作家という個によってのみもたらされるものではなく、数多くの人々の具体的な思考と行動の集積によってはじめて形をなすものであるならば、ひとりの映画作家のクロニクルもまた必然的に複数形(「クロニクルズ」)で編まれねばならないはずです。この本のページをめくりながら様々な人々の言葉に触れていると、いつしか「青山真治」という固有名はひとりの実在した人間の身体に帰属することをやめ、多くの人々の思考と行動が形作るひとつの動的な布置、ひとつの星座であるかのように思えてきます。そしてこの星座は大きな星をひとつ失ったあとにも、監督の作品を見て、その言葉を読み続ける人がいるかぎり、また監督と作品に関わった人々のあいだの繋がりが続いていくかぎり、これからも形を変えながら存在し続けるのでしょう。

ひとりの人間の生の軌跡をこのような仕方で書物にまとめることができるのだということに驚くとともに、これこそが映画というものが人間の生を描くやり方なのだとも感じます。すべての映画がそうだとは言いませんが、青山監督の映画、そして監督が敬愛した多くの映画は、他の人間たちや動物たち、諸々の事物や環境とのポリフォニックな関係のなかで登場人物を描いてきました。その意味で、樋口さんが「あとがきに代えて」述べている「この本のどこかにははっきりと Directed by Shinji Aoyama と署名してあるはずだ」という断言にも、「この項続く」という(とりあえずの)締めの言葉にも深く同意せずにはいられません。『青山真治クロニクルズ』は真の〈映画=本〉です。

この本はビジュアル面でも凝っていて、冒頭には二冊の日記本の舞台と言ってもいい地下の仕事場の写真や清水剛さんのデザイン画がカラーで掲載されていたり、『Helpless』、『サッド ヴァケイション』、『共喰い』の舞台となった小倉・門司周辺のロケ現場の地図が収録されていたりします。

青山作品を論じた文章で圧巻なのは廣瀬君の論考「普通の映画を作ること」でしょう。この文章はひと足早く読ませてもらっていたものですが、私が青山作品の曖昧な作家性について書いたときに思い浮かべていた構想 ―「普通の映画」として青山作品を論じること ― を途轍もない解像度で成し遂げています。FUGAKUシリーズについて書いたとき、私は青山作品に特徴的な活劇の形というものが存在するのではないかと考えていたのですが、廣瀬君の論考は画面の連鎖が実現する活劇性を真正面から論じています。この文章は「普通の映画」としての青山作品に徹底してフォーカスすることで、映画そのものについてのエッセンシャルなテクストになり得ていると思います。映画を志すすべての人に読んで欲しい文章です。

私は『EM/エンバーミング』についての文章を寄せています。といっても書き下ろしではなく、基本的にはかつて書いたものの再録です。『EM/エンバーミング』はおそらく興行的にもっとも上手くいかなかった青山作品のひとつで、批評などでも論じられることのほとんどない作品です。そういうわけで今回、この作品を論じた数少ない批評文として、私の文章が収録されることになりました。この本の話を聞いたとき、私は「クロニクル」というタイトルから判断して記録的性格の強い企画なのかと思ってしまい、あらたに書き下ろすことをしなかったのですが、出来上がった本を見て、いまの視点から書き下ろしてもよかったなあと思った次第です。でもまあ、致し方なしです。次の機会を待ちたいと思います。

ともかく、全体として素晴らしい映画本に仕上がっていますので、ぜひご一読ください!

<2023年3月21日追記>
恵比寿で開催された「青山真治監督に声を届ける会」に参加してきました。映画というひとつの仕事で結ばれた人々の強い絆と、命を注ぎ込んでいると言っても誇張ではないような監督、出演者、スタッフの方々の熱量を感じ、映画について書く側の人間として背筋が伸びる思いがしました。

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