1928年はベンヤミンの仕事において節目となった年である。まったく異なる主題について書かれていながら、同時に密接に結びついてもいる二冊の書物が、この年に相次いで出版されたのである。そのうちの一冊は、1925年に教授資格申請論文としてフランクフルト大学に提出するも受理を拒否され、撤回を余儀なくされた論文『ドイツ悲劇の根源』であり、この論文の撤回によって、ベンヤミンがドイツの大学で職を得る道は完全に断たれることになった。これ以後ベンヤミンは、文学雑誌や新聞文芸欄など、文学市場に仕事の場を求めるざるをえなくなる。そして、1928年に出版されたもうひとつの書物『一方通行路』は、いわばそのようなベンヤミンの新たな活動の最初の成果であった。ジャーナリズムの媒体が課す形式的制約を大都市生活のダイナミズムにふさわしい表現形式として積極的に利用するこの小さな書物は、膨大な文献を参照しつつ、バロック悲劇の核心をアレゴリーという表現形式のうちに見出し、その神学的・歴史哲学的意味にまで切り込んだ学術論文と、著しい対照をなしている。だがそれにもかかわらず、私たちは、この二冊の書物を結びつける要素をいくつも見つけることができる。たとえば、断片という形式、複数の断片の組み合わせ(=モンタージュ)、そして、イメージの併置がもたらす認識のショックなどである。これらは、ベンヤミンがバロック悲劇論で論じたアレゴリカー(アレゴリー作家)の活動の特徴であると同時に、『一方通行路』でベンヤミン自身が採用した方法論の中心的な要素でもある。このような断絶と持続の交錯が、1928年におけるベンヤミンの思考の〈転回〉の内実であった。『一方通行路』のモダニズムは、バロック悲劇のアレゴリー的思考と密かに通じ合っているのである。
『一方通行路』には、本文に先立って、つぎのようなエピグラフが置かれている。「この道の名は/アーシャ・ラツィス通り/この道を筆者のなかに/技師として/切り開いた女性の名に因んで」。(18頁)このエピグラフは、『一方通行路』のコンセプトについていくつかの重要な示唆を与えてくれる。この書物は、まず第一に、ひとつの通りとして構想されている。言葉で構築された通りとしてのテクスト。1928年の出版当時、開かれた頁の両側に「ガソリンスタンド」、「朝食室」、「骨董品」、「時計・金製品」などの断章タイトルが並んだ目次を目にした読者は、目次が一種の地図を形作っていることをただちにみてとったはずである。また、本文の部分においても、断章のタイトルは頁の端に突き出るかたちで配置され、あたかも本文という通りから突き出した商店の看板のようにみえるのである。『一方通行路』は、活字のタイポグラフィックな使用によって、当時流行したルポルタージュ文学とは異なる仕方で大都市の生活にアプローチする試みであった。それはラスロ・モホイ=ナジなどのタイポグラフィの実験とも無縁ではない。
また、このエピグラフは、一人の女性との偶然の出会いについても語っている。ベンヤミンは、1924年のカプリ滞在中に、ある商店の店先で偶然アーシャ・ラツィスと出会ったのだった。つまり、このエピグラフは、この書物が街頭での偶然の出会いに多くを負っていることを示唆しているのである。本文を構成する断章のタイトルはすべて、大都市の街頭が提供する言語素材(店の看板、ポスター、広告、チラシ、パンフレット、新聞や雑誌の見出し、会話の断片など)からとられている。ベンヤミンの思考は、これらの言語素材と出会い、それに触発されることによって発動する。たとえば、あるときには歩行者に注意を喚起する掲示(「注意 階段あり!」)から散文の詩学についての考察が生まれ、別の場合には、「辻馬車三台まで駐車可」という標識のもとに、旅や夢に由来する三つの光景(=三台の辻馬車)が寄せ集められるのである。
だが、『一方通行路』において、大都市生活者の眼前に不意に現れる言語素材との遭遇を思考の契機とすることは、偶然の厳密な意識的操作と対になっている。『一方通行路』の断章は、偶然性原理と意識的構成の産物なのである。エピグラフに含まれる「技師」という言葉が、作品の構成的側面を指し示すキーワードである。『一方通行路』というテクストは技師の手になる構築物である。技師としての作家は、偶然がもたらした言語素材を用いるのだが、それは厳密な計算にもとづいて、最大限の効果を発揮するように投入される。しかも、その計算と投入は一瞬のうちに、素早く行われねばならない。「マダム・アリアーヌ、二番目の中庭左側」と題された断章のなかで、ベンヤミンはそのような技師=作家に不可欠の資質を「当意即妙さ」と呼んでいる。「いま一秒のうちに成就するものを正確に知覚することのほうが、遠い彼方のものを予知することよりも、決定的に重要である。」(128頁)『一方通行路』の断章の配列を注意深く考察すれば、一見ランダムに集められたかに見える素材を厳密に操作する精神の当意即妙な働きを見出すことができるだろう。
『一方通行路』の最初の断章は、「構築」(Konstruktion)という単語で始められているが、これはもちろん偶然ではない。「ガソリンスタンド」と題されたその断章は、これから読まれようとするテクストと都市空間との結びつきについて語っているのだが、都市文学としての『一方通行路』の造形原理をなすのが〈構築〉なのである。この書物において、〈構築〉は〈描写〉と対立する。技師=作家は都市を描写するのではなく、構築するのである。それゆえ、技師=作家が生み出す散文は、おのずから都市を描写する作家が生み出す散文とは異なっている。「注意 階段あり!」と題された断章は、そのような技師=作家の念頭にある散文の詩学を簡潔に要約している。「よい散文を書く作業には三つの段階がある。構成を考える(作曲する)という音楽的段階、組み立てるという建築術的段階、そしておしまいに、織りあげるという織物的段階である。」(51頁)ここで重要なのは、散文の執筆がしたがうべき手続きのモデルを提供しているのが、いずれも非再現的芸術(音楽、建築、テキスタイル)だということである。技師=作家による言葉を用いた通りの構築という『一方通行路』のコンセプトには、従来の都市文学が前提してきたミメーシスの原理からの決別が含意されているのである。じっさい、都市文学としての『一方通行路』の際立った特徴をなしているのは、ふんだんに大都市に由来する言語素材が用いられていながら、都市空間の描写は皆無だという事実である。この点において、『一方通行路』は、都市生活を映し出す映像をふんだんに用いていながら、非対象的な抽象映画の構成原理にもとづいて編集されたヴァルター・ルットマンの『伯林―大都会交響楽』と比較されうる。
したがって、『一方通行路』は、フランツ・ヘッセルの『べルリンの散歩』に代表される同時代の遊歩者の文学とは一線を画している。ヘッセルの場合、遊歩者は公園にある誰も気に留めることのない彫像や人気のない広場に立ち止まり、それらを描写する。すると遊歩者のまなざしのなかで、現在のべルリンの姿が、呼び覚まされた過去のイメージと二重写しになるのである。それにたいして、『一方通行路』のどこを探してもそのような都市空間の描写は見つからない。『一方通行路』は都市空間と異なる関係をとり結んでいるのである。このことを確認するには、「皇帝パノラマ館」と題された断章を例にとるのが良いだろう。じつは、これと同じタイトルを持つ断章は、『1900年頃のべルリンの幼年時代』にも含まれている。記憶のなかのべルリンを舞台とした想像上の遊歩文学ともいえる『べルリンの幼年時代』では、パノラマ装置の簡単な描写からはじまって、そこで見た映像の印象や映像が切り替わるときに鳴る鈴の音が回想されている。それにたいして、『一方通行路』にはそのような記述はいっさいない。そのかわりに、「ドイツのインフレーションをめぐる旅」という副題のもと、経済的混乱に振り回されたドイツ社会の荒廃についての14の短い考察が並べられている。つまり、この断章では皇帝パノラマ館は描写の対象としてではなく、14枚のタブローを順番に提示する装置として、テクストの構成原理を提供しているのである。あるいはまた、「貼り紙禁止!」と題された断章では、「作家の技術」、「スノッブ人間に対抗する方法」、および、「批評家の技術」についての考察が、それぞれ13か条からなる箇条書きで記されている。ここでも都市空間は描写されるのではなく、禁止事項を箇条書きしたポスターという形で、テクストの構造化の原理を提供している。これら二つの例から明らかなとおり、『一方通行路』において、都市は描写の対象ではなく、テクストの構成原理そのものなのだ。これが、テクストを都市として構築するというコンセプトの意味するところであり、上述のようなテクストの構成原理は、都市空間に由来する言語素材の使用やタイポグラフィックなページ・デザインとともに、『一方通行路』という書物を言葉で構築されたひとつの通りとすることに貢献しているのである。
『一方通行路』は都市の街路についてのテクストではなく、街路としてのテクストである。ベンヤミンの思考は、この街路で出会う言葉に触発されて、一瞬ごとに新たに形作られる。エックハルト・ケーンが的確に指摘したように、『一方通行路』というテクストは、遊歩者の形象を持つことなく、「遊歩的思考」によって織り上げられているのである。
*頁数は「一方通行路」、『ベンヤミン・コレクション3』(浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、1997年)所収による。
(初出:『ベンヤミン 救済とアクチュアリティ』、河出書房新社、2006年)