「1900年頃のベルリンの幼年時代」解題

「1900年頃のベルリンの幼年時代」(以下、「ベルリンの幼年時代」と略記)は、複雑な成立過程を辿っている。1931年10月、ベンヤミンは文芸誌『リテラーリッシェ・ヴェルト』と「ベルリン年代記」の執筆契約を結ぶ。これはベルリンという都市とベンヤミンが取り結んだ関係の歴史を主題とするはずであった。1932年の前半までにベンヤミンはこの企画のためにいくつかのテクストを書き上げているが、結局、構想は実現せず、テクストは未完の草稿にとどまった(「ベルリン年代記」として、『ベンヤミン著作集12』(晶文社)に収録)。「ベルリン年代記」と後に書かれた「ベルリンの幼年時代」とを比べると、「ベルリン年代記」のほうが扱っている時期が広く(青年期の思い出も語られている)、逸話に富み、自伝小説のスタイルとは一線を画しつつも、回想行為のたゆたうような動きを強く感じさせる叙述となっている。

 「ベルリン年代記」の中断は、ベンヤミンの深い内面的危機と関係がある。40歳の誕生日の後、1932年の7月末にベンヤミンはかねてから抱いていた自殺の計画を実行しようと試みている。ベンヤミンが「ベルリン年代記」の全面的な改稿に着手し、「ベルリンの幼年時代」の中核をなすことになるテクストの多くが執筆されるのは、この危機の直後から1933年2月にかけての時期である。それらのテクストにおいては、逸話的な要素は大幅に刈り込まれ、短く密度の高い断章の連なりが、個々の回想の不連続性を際立たせている。ベンヤミン研究者のベルント・ヴィッテがかつて指摘したように、このようなスタイルの変化(語りの連続性の破砕と断片化)のうちに、ベンヤミンの内面的危機とドイツのユダヤ人を襲いつつあった社会的危機の痕跡を見ることは間違いではないだろう。ここでは幼年期の出来事の回想は、死を前にした人間の脳裏に去来するイメージの連なりの様相を呈する。ベンヤミンにとって、プルーストの「無意志的記憶」とはそのようなイメージの経験に他ならなかった。(「プルーストについての短いスピーチより」参照、1932年)

 1933年から34年にかけて、ベンヤミンは書きためたテクストを個別に新聞に発表しつつ、さらにいくつか重要な断章を執筆し、二つの出版社に書物としての出版を提案している。しかし、どちらの企画も政治情勢の影響もあり実現しなかった。1950年にはじめて書物として出版された「ベルリンの幼年時代」は、この時期までに書かれたテクストをもとにアドルノが配列を決定し、編集したものである(この「アドルノ稿」に遺稿に残されていたいくつかの断章を加えて再編集されたのがいわゆる「アドルノ–レクスロート稿」であり、こちらも『ベンヤミン著作集12』に収録されている)。

 その後、パリで亡命者としてヨーロッパの危機の進行を目の当たりにしていたベンヤミンは、1938年の夏にもう一度「ベルリンの幼年時代」の改稿作業を行っている。ベンヤミン自身によって「最終稿」と記されたこのヴァージョンには、新たに序文が付され、テクストの配列を記した目次も含まれている。したがって、いちおうこれがベンヤミンの意図した「ベルリンの幼年時代」の姿を示す唯一の稿であると言うことはできるのだが、それもあくまでも未刊行に終わった書物のある時点における「最終稿」であり、ベンヤミンが絶えず断章の新たな組み合わせを試みていたことは考慮されねばならないだろう(「最終稿」は『ベンヤミン・コレクション3』(ちくま学芸文庫)に収録されている)。

 「最終稿」でなされた改稿で際立っているのは、過去の回想から切迫した歴史認識を引き出すべく選ばれたコンセプチュアルな構成の優位である。「最終稿」の冒頭に置かれた「ロッジア」という文章が示している通り、ベンヤミンにとって、幼年時代を回想することは、目立たぬ空間の襞に分け入り、それを丁寧に広げていくことである。「道に迷う技術」である遊歩は、合理的な行動の規範を意識的に宙づりにすることによって、都市空間の目立たぬ襞に分け入ることに他ならず、それゆえベンヤミンにとっては、遊歩が回想の方法となる。遊歩と回想は、ともに非合理的なものの意識的な統御であり、陶酔を認識のために活用することなのである。すでに「ベルリン年代記」の改稿作業のおいて、ひとつの形象からべつの形象へとひらひらと飛びうつるような回想の運動が押しとどめられ、断片化され、逸話的要素が削られたことは指摘したが、その作業が「最終稿」への改稿でさらに押し進められる。個人的なエピソードは削除され(「凱旋記念塔」)、個々の回想は、しばしばイメージの展開の豊かさを犠牲することも厭わず、そこに秘められた認識の核にまで切り詰められている(「皇帝パノラマ館」、「ある訃報」、「靴下」、「ムンメレーレン」)。回想された都市を遊歩する者の陶酔は、完全に認識の要請にもとに服しているのである。

 ベンヤミンが掲げる認識の要請とは、「最終稿」の序文の言葉を用いていえば、「大都市の経験が市民階級のあるひとりの子供の姿をとりつつ沈殿している、そのようなイメージ」のうちから「過ぎ去ったものの偶然的、伝記的な回復不可能性」ではなく、その「必然的、社会的な回復不可能性」への洞察を引き出すことである。(『ベンヤミン・コレクション3』、469-470頁)ここで問題になるのは、したがって、ベンヤミン個人の幼年時代の回想ではなく、ベンヤミンもその一員である集団の記憶であり、ひとりの子供の幼年期のなかに入れ子状にはめ込まれたひとつの時代の幼年期である。プルーストに触発された〈回想の文学〉として始まったベンヤミンの「ベルリンの幼年時代」は、切迫する時代状況のなかで、『パサージュ論』に連なる唯物論的な〈回想の歴史学〉の実験へと変貌を遂げたのである。

(初出:『ベンヤミン 救済とアクチュアリティ』、河出書房新社、2006年 )

KAWADE道の手帖シリーズの一冊『ベンヤミン 救済とアクチュアリティ』(河出書房新社、2006年)に収録された作品解題。若干の修正が加えられています。

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