2023年10月に日本独文学会で開催したシンポジウムにもとづく論集が学会の研究叢書としてオンライン刊行されました。「「群集」を再訪する——ただしパトスなしに」と題されたこのシンポジウムでは、2000年代以降に人文学諸分野で生じた群集(Masse)という主題の再浮上と、それに伴う19世紀末以来の群集をめぐる思考の枠組みの捉え直しに注目し、集団の行動 (ふるまい)に関する新たな知見を視野に収めつつ、今日的な視点から両大戦間のドイツ語圏の文学にみられる群集表象を再検討することを試みました。(叢書全体のダウンロードはこちらから)
本論集は同シンポジウムでの発表をベースにしつつも、全面的に改稿された論考から構成されています。具体的には、アルフレート・デープリン、ヘルマン・ブロッホ、エルンスト・ユンガー、フロイト、マルティン・ケッセル、クラカウアーといった作家のテクストに現れる群集の表象と群集をめぐる思考が論じられます。私は1932年にマルティン・ケッセルが発表した長編小説『ブレッヒャー氏の失敗』に見出される群集と集団性の表象を「同期」の概念を用いて検討しました。新即物主義の都市文学を読み直すための新たな視点を探索する試論ですが、その文脈のもとでクラカウアーの『会社員』も論じています。(本論文のダウンロードはこちらから)
両大戦間のドイツ語圏文学における群集の主題を集中的に論じた論集は日本語環境ではあまりないと思います。私の論考はまだまだ試論の域を出ませんが、他の三つの論文は専門的知見に支えられた非常に密度の濃い議論を展開しています。ぜひご一読いただけると嬉しいです。
以下、私が書いた序文の冒頭部分を掲載します。
はじめに
いま「群集」を再訪するということ
海老根 剛
本叢書は2023年10月14日に日本独文学会秋季研究発表会(於・京都府立大学)にて開催されたシンポジウム「〈群集〉を再訪する——ただしパトスなしに 両大戦間期ドイツ語圏の文学における群集表象の再検討」にもとづいて編集されたものである。各論考は当日の発表原稿を基礎にしているが、シンポジウムにおける議論もふまえ、大幅な加筆修正を施している。本シンポジウムの狙いは、2010年代以降に顕著になった「群集」という主題への関心の高まりと、今世紀初頭以来の集団の振舞いに関する新たな学術知の形成を視野に収めつつ、両大戦間期のドイツ語圏の文学・思想にみられるいくつかの群集表象を再訪し、今日的な視点から再検討することにあった。本叢書に収録された各論考も同様の趣旨のもとで執筆されている。もちろんドイツ語圏、そして両大戦間に限定したとしても、「群集」を扱った文学作品は無数に存在しており、本叢書が扱うのはそのごく一部に過ぎない。しかし、ここに集められた論考を通して、「群集」という主題にアプローチするいくつかの新たな視点を提示してみたいと考えている。導入の役目を果たすこの文章では、本叢書の背景をなす問題意識を概括的に提示するとともに、各論考の議論において前提されている群集概念の整理を行う。
1.「群集」の回帰?
冒頭に述べたように本叢書の企画の背景には、近年観察される「群集」という主題への関心の高まりがある。とはいえ、それは必ずしも、人々がまたMasse(群集)について盛んに論じるようになったということでない。ここでの「回帰」とは、かつてならMasseという主題のもとで論じられていたであろう事象が再び社会的重要性を獲得し、それについて考えることが喫緊の知的課題となっているという事態を指している。
いくつかよく知られた例を挙げるなら、とりわけ2008年のリーマンショック以降、世界各地で新しいタイプの集団的な政治行動が展開してきた。エジプトのタハリール広場における反体制運動、マドリードのプエルタ・デル・ソル広場における「インディグナードス」(怒れる者たち)の抗議行動、イスタンブールのゲジ公園をめぐる市民運動、ニューヨークを発生源とする「オキュパイ・ウォールストリート」運動、香港における民主化運動、日本における原発再稼働反対運動などがそれにあたる。これらの運動の多くは、従来のデモとは異なり、広場などを占拠するスタイルを採用し、一元的な指揮系統をもたずに、ソーシャルメディアを活用して流動的に運動を組織していた。こうした新しいタイプの抗議行動の展開に触発され、2010年代には主に政治哲学の分野で集団的な政治行動をめぐる新たなタイプの思考が練り上げられていくことになる。また2016年にアメリカでトランプ大統領が誕生すると、ポピュリズムが切迫した問題となり、その解明のためにル・ボンやフロイトの群集心理学が読み直されるという状況も生じている。デモや蜂起や民主政の危機といった20世紀前半には群集の名のもとに論じられていたトピックが、新たな概念装置のもとで議論されているのである。
他方、2000年代にはまた、一見するといま触れた動きとは無関係に、複雑系の科学において群れの振舞いの研究が急速に進展し、それが人文学にも影響を与えるようになった。当初は動物の群れを対象としていたこの研究は、のちに大都市の雑踏における人々の振舞いや、集団パニックのような現象を、群れの自己組織化の問題として扱うようになった。ここでもまた、かつてなら「群集」の名のもとに主題化されてきた事象が、新たな角度から究明されていると言うことができる。
これら今世紀に入って成立した集団の行動をめぐる新しい思考は、後で確認するように、決定的な点で群集心理学に代表される20世紀的な思考の枠組みから決別している。つまり、それらの思考によって、20世紀の思想や文学を支配してきた群集の概念は決定的に歴史化したとみなすことができるのである。この歴史化によって、群集をめぐる言説と表象の構築性を、言い換えれば、それらを規定していた思考のパラダイムを、より明瞭に認識することが可能になった。この歴史化が開くチャンスを掴み取り、両大戦間期ドイツ語圏における群集という主題を新たな角度から捉え直す可能性を探求することが、本叢書の根底にある問題意識である。