文楽の「普通の新作」
『まちの灯』雑感
今年の国立文楽劇場の夏休み公演では、夜の部で新作浄瑠璃『まちの灯』が上演された。近年の国立文楽劇場の公演でチケットが売切れることはまずないのに、『まちの灯』では日に日にお客さんが増えていき、最後の二日間は満員札止めになったそうである。私も8月初めに見に行ったが、後方の座席までお客さんで埋まっていて、とても盛り上がっていた。文楽が「まちの話題」になっていた感… Read More »文楽の「普通の新作」
『まちの灯』雑感
今年の国立文楽劇場の夏休み公演では、夜の部で新作浄瑠璃『まちの灯』が上演された。近年の国立文楽劇場の公演でチケットが売切れることはまずないのに、『まちの灯』では日に日にお客さんが増えていき、最後の二日間は満員札止めになったそうである。私も8月初めに見に行ったが、後方の座席までお客さんで埋まっていて、とても盛り上がっていた。文楽が「まちの話題」になっていた感… Read More »文楽の「普通の新作」
『まちの灯』雑感
2026年6月5日に名古屋大学でレクチャーを行うことになりました。 「「現代」の舞台表現として人形浄瑠璃を考える」と題して、私たちにとっての人形浄瑠璃の同時代性について考えます。拙著『人形浄瑠璃の近代が始まったころ』の末尾に私は次のように書いています。 伝統に支えられた現代の芸術という観点のもと、人形浄瑠璃の活動の全体を注視し、そこに見いだされるであろう「新… Read More »名古屋大学でレクチャーを行います
2024年9月に新国立劇場で開催された文楽鑑賞教室はなかなか興味深いものだった。忘れないうちにメモしておきたい。今回、わざわざ東京の公演を見に行ったのは、二つの理由からだった。ひとつは、会場が現代演劇で使われるブラックボックスの劇場(The Pit)だったこと。もうひとつは、新作ではなく古典の演目で従来とは異なる照明の使用が試みられているらしいという噂が耳に… Read More »文楽座東京公演の照明と国立劇場の現在
【第35回吉田秀和賞受賞】和泉書院から書籍を刊行しました。大正末期から昭和十年代にいたる人形浄瑠璃の歩みを観客史の観点から論じた著作です。タイトルが示す通り、演者や興行主ではなく、劇場で舞台を楽しんでいた観客たちの経験に注目して、人形浄瑠璃の「近代」の始まりを描き出しています。「古典芸能」を愛好する人はもちろん、「古典芸能」なるものに違和感(胡散臭さ)を感じ… Read More »【刊行】『人形浄瑠璃の「近代」が始まったころ 観客からのアプローチ』
本論文の主題は、昭和5年1月の四ツ橋文楽座の開場前後に生じた人形浄瑠璃を取り巻く環境の変化を観客という観点から考察することです。本論文では、四ツ橋文楽座の開場とともに出現した新しい観客たちを「二重の無知」によって特徴づけられる観客として定義したうえで、彼がどのように人形浄瑠璃の舞台に向き合ったのかを三つの観点から検討しています。 本論文は人形浄瑠璃の近代を観… Read More »「無知な観客」の誕生四ツ橋文楽座開場後の人形浄瑠璃とその観客
苦節30年、いよいよ本当に開館した大阪中之島美術館で、森村泰昌&桐竹勘十郎による『人間浄瑠璃 新・鏡影奇譚』を見てきた。私は近代の人形浄瑠璃の観客史に関心があり、大正から昭和までの資料を調べ、論文も書いているが、研究関心の消失点をなしているのは、リアルタイムで進行中の人形浄瑠璃の上演形態と観劇体験のラディカルな流動化である。2012年に橋下大阪市長が文楽に対… Read More »近松という参照点:『人間浄瑠璃』雑感
本論文は大阪市立大学都市文化研究センターによる研究プロジェクト「伝統芸能の近代化とメディア環境」の成果物です。 本論文の根底にある問題関心は、近代以降の視聴覚的メディア環境に慣れ親しんだ(そして義太夫の音曲的側面には疎遠な)観客の出現をめぐる歴史的考察であり、とりわけ近代の大都市とメディアの経験によって形作られる感受性(モダニティの感受性)を内面化した「新し… Read More »弁天座の谷崎潤一郎 昭和初年の「新しい観客」をめぐる一試論