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『文化接触のコンテクストとコンフリクト』が刊行されました

2015年度に開催された大阪市立大学国際学術シンポジウム「文化接触のコンテクストとコンフリクト EU諸地域における環境・生活圏・都市」の発表と議論をもとにした論集が刊行されました。私は第1部に収録されたヨアヒム・ラートカウ氏の講演「古い都市と森林 持続可能性の隠された諸起源」の翻訳と、第2部「〈合同生活圏〉 共生か敵対か?」の解題執筆を担当しています。

映画川 『大和(カリフォルニア)』

boidマガジンに映画評を寄稿しました。今回は宮崎大祐監督の『大和(カリフォルニア)』について書いています。本作は2018年4月7日より、新宿のK’s cinema を皮切りに全国6都市の映画館で順次公開されることになっています。米軍厚木基地の立地である大和市を舞台にしたこの作品は、日本とアメリカの関係を主題にした作品としてだけでなく、今日の地方都市の匿名的で貧しい風景と映画がいかに向き合うのかという点でも、ヒップホップの思想と音楽性を物語の中枢に導入する試みとしても、非常に野心的な作品になっています。

千の声、千の眼差しがひとつになるとき −ジャンダルメン・マルクトでの出来事−

かつてドイツ学術交流会(DAAD)の「友の会」の年報『ECHOS』に寄稿した小文のことを思い出したので蔵出しします。
DAAD東京事務所開設30周年を記念して発刊されたこの年報では、DAADの給費留学生としてドイツの大学に留学した人々がみずからの留学体験を振り返る文章を寄せていました。そこで私はベルリン・ジャンダルメンマルクトで体験した出来事について書いています。私が群集という主題に取り組むきっかけとなった出来事のひとつです。ご笑覧ください。

映画川『ありがとう、トニ・エルドマン』

3月に続いて boid マガジンに映画評を寄稿しました。
今回取り上げたのは、昨年のカンヌ映画祭で大いに評判を呼び、国際的に批評的成功を収めたドイツ映画『ありがとう、トニ・エルドマン』(マーレン・アーデ監督)です。劇場公開前の掲載ということで、普段はまったく意に介さないのですが、一応ネタバレしないように配慮して書いています。
私はこの見事な作品の根底に、gnadenlos あるいは knallhart というドイツ語で形容するのがふさわしい感触を得ました。それはコメディの外観によって巧みに隠された眼差しの厳しさです。今回のレビューはこの感触をめぐって書かれています。同時にこの作品を背後で支える「コンプリーツェン・フィルム」という制作会社のこと、そして近年のドイツ映画に観察される才能豊かな女性監督の台頭についても触れています。

〈映画都市〉としてのマドリード 
アルモドバルの初期作品における都市表象をめぐって

本論文では、スペインの映画作家ペドロ・アルモドバルの二本の初期作品に描かれる都市の表象を「映画都市」(cinematic city)の観点から考察しています。
「映画都市」とは、映画における都市表象の研究において、特に2000 年以降盛んに議論されるようになった概念ですが、映画と都市との多面的な結びつきを考えるにあたって有益な観点を提出しています。
この論文ではまずアルモドバルとマドリードの関係を概観した後に、映画都市の概念を検討し、それをアルモドバルの初期作品に登場する都市の表象の分析に援用することによって、それらの作品に見られる映画と都市経験の結びつきを具体的に考察することを試みています。『表現文化』第9号所収、36-67頁、2015年。

交通都市と欲望の迷宮
デーブリーン/ファスビンダーの〈アレクサンダー広場〉

1920年代末に始まったべルリン・アレクサンダー広場の改造計画の考察を出発点に、アルフレート・デーブリーンとライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが紡ぎ出した〈べルリン・アレクサンダー広場〉のイメージを、都市空間/文学/映画の横断的関係に注目しつつ考えてみました。ご一読いただけると光栄です。

世界を未完成する魔法のプリズム 
『5 Windows』(再編集版)の公開によせて

boid paper #11に寄稿したエッセイを公開します。boid paper 掲載時の文章に若干の加筆修正が加えられています。
『5 Windows』(瀬田なつき監督)の東京上映はすでに終了しましたが、関西ではこれから公開予定です。とても魅力的な作品ですので、公開の折りにはぜひご覧ください。

Erfindung von „Girl-Kultur“
Eine vergleichende Betrachtung des Amerikanisierungsdiskurses der Zwischenkriegszeit in Deutschland und Japan

In diesem Aufsatz geht es um eine komplexe, kulturspezifische Dynamik der “Amerikanisierung”. Im Aufsatz soll eine vergleichende Betrachtung der Amerikanisierungsdiskurse in Deutschland und Japan in den 1920er und früheren 30er Jahren unternommen werden. Hier werden die Amerikanismusdebatte und die Thematisierung von „Girls“ als Sinnbild der amerikanischen und auch amerikanisierten Kultur in den beiden Ländern skizziert. (In: Transkulturalität. Identitäten in neuem Licht. 2012 Iudicium Verlag München, S. 543-549.)

群集と〈交通〉
ヴァイマル共和国中期における群集論の変容

本論文は、20世紀前半のドイツ語圏において生み出された群集をめぐる思考の展開を考察する研究の一部です。ここでは、1920年代の中頃に形成された群集論の新たなパラダイムについて考察しています。
『表現文化』(大阪市立大学大学院文学研究科表現文化学教室) no. 2.、2007年に掲載。

『夜光』について

2010年1月に横浜で開催された映画祭「未来の巨匠たち」で上映された桝井孝則監督作品『夜光』に拙文を寄せました。執筆・掲載が遅かったので紹介文としての役目はあまり果たせませんでしたが。映画祭の公式サイトがいつまであるのかわからないので、こちらにも転載しておきます。なお、公式サイト掲載のものとは若干表現の異なる箇所があります。『夜光』はまだこれからもきっと上映機会があると思いますので、その際にはぜひご覧ください。

映画を脅かす不可視の影
– スタンリー・キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』

キューブリックが最後の作品で対峙したものは何であったのか? みずからのフィルモグラフィーの終章としてキューブリックが撮りあげた『アイズ・ワイド・シャット』を考察しています。初出は本作の日本公開時の2000年です。