エリック・ロメールによる「テクストの撮影」『O侯爵夫人』/『ペルスヴァル・ル・ガロワ 聖杯伝説』
文学テクストの映画化において、フィルムの真の対象とは何か? ロメールによる文学作品の翻案を考察する。カイエ・デュ・シネマ・ジャポン(第26号)、1998年、勁草書房に掲載。
文学テクストの映画化において、フィルムの真の対象とは何か? ロメールによる文学作品の翻案を考察する。カイエ・デュ・シネマ・ジャポン(第26号)、1998年、勁草書房に掲載。
2006年7月に船場アートカフェで開催された映画祭「リュック・フェラーリ・フェスティバル 世界のざわめき、音の記憶」のパンフレットに掲載した文章を公開します。ウェブ掲載にあたって、一部改稿されています。
瀬田なつき監督の短編作品『あとのまつり』についてのエッセイをアップします。2010年3月13-14日に大阪で開催された映画祭〈Natsuki Seta Hours〉に合わせて発行されたパンフレットに寄稿したものです。パンフ掲載時の文章に加筆修正が加えられています。
映画は都市といかなる関係を結びうるのか? 映画とマドリードの関係の変容を辿りながら、ペドロ・アルモドバルのフィクションの変遷を考察します。『ライブ・フレッシュ』の日本公開に合わせて1998年に発表された論考です。
この論考ではフィルムを織り上げる移動と回帰の運動の軌跡を辿りながら、アモス・ギタイのフィルムの力学を考察しています。初出は『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』No.27(勁草書房、1999年)です。
1990年代後半、アルノー・デプレシャンを筆頭とするフランスの若手監督たちの作品の批評的な参照点として、突如アラン・レネのフィルム群が(再)浮上した。彼のフィルムのどこに現在の映画作りを挑発する力が秘められているのだろうか? レネのフィルムの可能性をめぐる試論。初出は『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』24号、勁草書房、1998年。
8ミリ作品でありながら現代の東京と紀州を舞台に途方もないスケールの物語を展開する『百年の絶唱』の劇場公開前になされた監督へのインタビューです。(初出:『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』 No.22、勁草書房、1997年12月)
石井聰互の『エンジェル・ダスト』、青山真治の『名前のない森』など映画の分野でも優れた仕事を続ける音楽家、自称「デスクトップ・パンカー」長嶌寛幸への1998年のインタビューです。この記事ではソロプロジェクトとして紹介されていますが、 Dowser は、現在、三人のユニットとして活動しています。
トルストイの小説は、タヴィアーニ兄弟の手によって愛の物語としてではなく、愛へと到達する過酷な道程としてスクリーン上に甦る。『映画芸術』(405号、2003年)に掲載。