「不実なる忠実さ」の系譜書評 『〈救済〉のメーディウム』
表象文化論学会の学会誌『表象』11号に書評を寄稿しました。竹峰義和氏の著書『〈救済〉のメーディウム––ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会)の内容を紹介しつつ、若干のコメントを加えています。(学会誌の書評ということで、少し生真面目に書きすぎたかな・・・という気も。)
表象文化論学会の学会誌『表象』11号に書評を寄稿しました。竹峰義和氏の著書『〈救済〉のメーディウム––ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会)の内容を紹介しつつ、若干のコメントを加えています。(学会誌の書評ということで、少し生真面目に書きすぎたかな・・・という気も。)
boid マガジンに空族の最新作『バンコクナイツ』(富田克也監督)の批評を寄稿しました。 少し風変わりなタイトルですが、「理解すること」の問題性と「理解しないこと」のポテンシャルという観点から空族の実践と作品を考察しています。
これまで日本で紹介されることのなかったドイツの映像作家、クラウス・ウィボニー監督の上映会が同志社大学で開催されます。監督自身も来日し、作品上映後には赤坂太輔さんとの対談が行われます。私も通訳としてサポートする予定です。ウィボニー監督の作品に触れる貴重な機会ですので、ぜひご来場ください。
東京では昨年末に公開され、関西ではこれから公開になるアルノー・デプレシャンの新作『あの頃エッフェル塔の下で』について、批評的な文章(「美しき廃墟の前で」)を『nobody』44号に寄稿しました。 この作品は国内外の映画批評家が選ぶ2015年のベストテンにもたびたび登場した秀作ですが、デプレシャンのこれまでの映画作りのエッセンスを凝縮したような、とても魅力的な… Read More »美しき廃墟の前でアルノー・デプレシャン 『あの頃エッフェル塔の下で』試論
本論文では、スペインの映画作家ペドロ・アルモドバルの二本の初期作品に描かれる都市の表象を「映画都市」(cinematic city)の観点から考察しています。 「映画都市」とは、映画における都市表象の研究において、特に2000 年以降盛んに議論されるようになった概念ですが、映画と都市との多面的な結びつきを考えるにあたって有益な観点を提出しています。 この論文… Read More »〈映画都市〉としてのマドリード アルモドバルの初期作品における都市表象をめぐって
このたびミネルヴァ書房の世界文化シリーズ第4巻として刊行された『ドイツ文化 55のキーワード』(宮田眞治、畠山寛、濱中春 編)に「ベルリン映画祭 都市の歴史とともに」という文章を寄稿しました。
2003年1月に死去した映画作家、モーリス・ピアラの遺作 Garçu (邦題『パパと呼ばないで』)を中心に、ピアラの映画作りを考察しています。nobody #8(2003年) に掲載されました。
明石書店から出ているエリアスタディーズ・シリーズの新刊『『マドリードとカスティーリャを知るための60章』(川成 洋・下山 静香 編著)に「アルモドバルのいる街角––映画に息づくマドリード」という文章を寄稿しました。
nobody 33号(2010年)のエリック・ロメール追悼特集に寄稿しました。「sauvageなもの」(野生なもの)という観点から、ロメール作品に潜在する〈飼いならされざるもの〉の力を考察しています。主に論じられているのは、『レネットとミラベルの四つの冒険』、『聖杯伝説』、『緑の光線』、『グレースと公爵』の4作品です。なお、ウェブ掲載にあたって本文に若干の修… Read More »野生の映画/映画の野生
1920年代末に始まったべルリン・アレクサンダー広場の改造計画の考察を出発点に、アルフレート・デーブリーンとライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが紡ぎ出した〈べルリン・アレクサンダー広場〉のイメージを、都市空間/文学/映画の横断的関係に注目しつつ考えてみました。ご一読いただけると光栄です。
いまだその驚くべき豊かさで私たちを圧倒してやまない映画作品『神の道化師、フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ監督、1950年)。その魅力を探る批評的エッセイです。 nobody #15(2004年) に掲載されました。ここに公開するバージョンでは、初出原稿に若干の加筆・訂正が加えられています。
テクストからフィルムへ、一個の心臓が密輸される。そしてこのよそ者の侵入とともに、いたるところで数々の多様な侵入の端緒が開かれる。ジャン=リュック・ナンシーのエッセイをクレール・ドゥニはどのように映画化したのか。nobody #17 (2005年)に掲載。