『マドリードとカスティーリャを知るための60章』
明石書店から出ているエリアスタディーズ・シリーズの新刊『『マドリードとカスティーリャを知るための60章』(川成 洋・下山 静香 編著)に「アルモドバルのいる街角––映画に息づくマドリード」という文章を寄稿しました。
明石書店から出ているエリアスタディーズ・シリーズの新刊『『マドリードとカスティーリャを知るための60章』(川成 洋・下山 静香 編著)に「アルモドバルのいる街角––映画に息づくマドリード」という文章を寄稿しました。
nobody 33号(2010年)のエリック・ロメール追悼特集に寄稿しました。「sauvageなもの」(野生なもの)という観点から、ロメール作品に潜在する〈飼いならされざるもの〉の力を考察しています。主に論じられているのは、『レネットとミラベルの四つの冒険』、『聖杯伝説』、『緑の光線』、『グレースと公爵』の4作品です。なお、ウェブ掲載にあたって本文に若干の修正を加えています。
1920年代末に始まったべルリン・アレクサンダー広場の改造計画の考察を出発点に、アルフレート・デーブリーンとライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが紡ぎ出した〈べルリン・アレクサンダー広場〉のイメージを、都市空間/文学/映画の横断的関係に注目しつつ考えてみました。ご一読いただけると光栄です。
いまだその驚くべき豊かさで私たちを圧倒してやまない映画作品『神の道化師、フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ監督、1950年)。その魅力を探る批評的エッセイです。 nobody #15(2004年) に掲載されました。ここに公開するバージョンでは、初出原稿に若干の加筆・訂正が加えられています。
テクストからフィルムへ、一個の心臓が密輸される。そしてこのよそ者の侵入とともに、いたるところで数々の多様な侵入の端緒が開かれる。ジャン=リュック・ナンシーのエッセイをクレール・ドゥニはどのように映画化したのか。nobody #17 (2005年)に掲載。
boid paper #11に寄稿したエッセイを公開します。boid paper 掲載時の文章に若干の加筆修正が加えられています。
『5 Windows』(瀬田なつき監督)の東京上映はすでに終了しましたが、関西ではこれから公開予定です。とても魅力的な作品ですので、公開の折りにはぜひご覧ください。
イヴォンヌ・シュピールマンの『ヴィデオ 再帰的メディアの美学』(三元社)の翻訳刊行に合わせて、2012年に立教大学ドイツ文学研究室の学術誌『Aspekt』に寄稿した論考です。ここでは近年のデジタル映像をめぐる議論におけるヴィデオ(ヴィデオアート)の欠落を指摘したうえで、映画とヴィデオにおける自己反省の形式の違いをゴダールとスタイナ・ヴァスルカの作品の比較を通して検討しています。
2010年1月に横浜で開催された映画祭「未来の巨匠たち」で上映された桝井孝則監督作品『夜光』に拙文を寄せました。執筆・掲載が遅かったので紹介文としての役目はあまり果たせませんでしたが。映画祭の公式サイトがいつまであるのかわからないので、こちらにも転載しておきます。なお、公式サイト掲載のものとは若干表現の異なる箇所があります。『夜光』はまだこれからもきっと上映機会があると思いますので、その際にはぜひご覧ください。
キューブリックが最後の作品で対峙したものは何であったのか? みずからのフィルモグラフィーの終章としてキューブリックが撮りあげた『アイズ・ワイド・シャット』を考察しています。初出は本作の日本公開時の2000年です。
内容はタイトルのとおり、青山真治作品におけるDowser(長嶌寛幸+寺井昌輝)の仕事についてです。2007年4月21日に開催された爆音上映オールナイトイベントに合わせてboidが発行したフリーパーパー boid PAPER No.3 に掲載。若干の加筆がなされています。
「ファスビンダー DVD-BOX1」の発売に合わせて書いたレビューです。ですので、このBOXに収録された3作品(『愛は死よりも冷酷』、『自由の代償』、『マリア・ブラウンの結婚』)を中心に論じてていますが、『四季を売る男』以降のメロドラマにも触れています。なお初出は2005年で、ここに掲載されるバージョンでは初出に若干の修正が加えられています。
『この世の外へ クラブ進駐軍』(阪本順治監督)にはある戦いが描かれている。しかし、この作品のなかで実際にそれが描写されるのは、最後の十数分間のことに過ぎない。ではそれはいかなる戦いであったのか。nobody #11(2004年)に掲載。