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Short Forms

千の声、千の眼差しがひとつになるとき −ジャンダルメン・マルクトでの出来事−

かつてドイツ学術交流会(DAAD)の「友の会」の年報『ECHOS』に寄稿した小文のことを思い出したので蔵出しします。
DAAD東京事務所開設30周年を記念して発刊されたこの年報では、DAADの給費留学生としてドイツの大学に留学した人々がみずからの留学体験を振り返る文章を寄せていました。そこで私はベルリン・ジャンダルメンマルクトで体験した出来事について書いています。私が群集という主題に取り組むきっかけとなった出来事のひとつです。ご笑覧ください。

映画川『ありがとう、トニ・エルドマン』

3月に続いて boid マガジンに映画評を寄稿しました。
今回取り上げたのは、昨年のカンヌ映画祭で大いに評判を呼び、国際的に批評的成功を収めたドイツ映画『ありがとう、トニ・エルドマン』(マーレン・アーデ監督)です。劇場公開前の掲載ということで、普段はまったく意に介さないのですが、一応ネタバレしないように配慮して書いています。
私はこの見事な作品の根底に、gnadenlos あるいは knallhart というドイツ語で形容するのがふさわしい感触を得ました。それはコメディの外観によって巧みに隠された眼差しの厳しさです。今回のレビューはこの感触をめぐって書かれています。同時にこの作品を背後で支える「コンプリーツェン・フィルム」という制作会社のこと、そして近年のドイツ映画に観察される才能豊かな女性監督の台頭についても触れています。

「不実なる忠実さ」の系譜
書評 『〈救済〉のメーディウム』

表象文化論学会の学会誌『表象』11号に書評を寄稿しました。竹峰義和氏の著書『〈救済〉のメーディウム––ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ』(東京大学出版会)の内容を紹介しつつ、若干のコメントを加えています。(学会誌の書評ということで、少し生真面目に書きすぎたかな・・・という気も。)

美しき廃墟の前で
アルノー・デプレシャン 『あの頃エッフェル塔の下で』試論

東京では昨年末に公開され、関西ではこれから公開になるアルノー・デプレシャンの新作『あの頃エッフェル塔の下で』について、批評的な文章(「美しき廃墟の前で」)を『nobody』44号に寄稿しました。
この作品は国内外の映画批評家が選ぶ2015年のベストテンにもたびたび登場した秀作ですが、デプレシャンのこれまでの映画作りのエッセンスを凝縮したような、とても魅力的な作品になっています。私の論考ではデプレシャンの初期作品(特に『魂を救え!』と『そして僕は恋をする』)と関係づけならが、この作品が描き出す豊かな時間のイメージを考察しています。

野生の映画/映画の野生

nobody 33号(2010年)のエリック・ロメール追悼特集に寄稿しました。「sauvageなもの」(野生なもの)という観点から、ロメール作品に潜在する〈飼いならされざるもの〉の力を考察しています。主に論じられているのは、『レネットとミラベルの四つの冒険』、『聖杯伝説』、『緑の光線』、『グレースと公爵』の4作品です。なお、ウェブ掲載にあたって本文に若干の修正を加えています。

交通都市と欲望の迷宮
デーブリーン/ファスビンダーの〈アレクサンダー広場〉

1920年代末に始まったべルリン・アレクサンダー広場の改造計画の考察を出発点に、アルフレート・デーブリーンとライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが紡ぎ出した〈べルリン・アレクサンダー広場〉のイメージを、都市空間/文学/映画の横断的関係に注目しつつ考えてみました。ご一読いただけると光栄です。

〈貧しきひと〉に導かれて
『神の道化師、フランチェスコ』

いまだその驚くべき豊かさで私たちを圧倒してやまない映画作品『神の道化師、フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ監督、1950年)。その魅力を探る批評的エッセイです。 nobody #15(2004年) に掲載されました。ここに公開するバージョンでは、初出原稿に若干の加筆・訂正が加えられています。